共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇の最近のブログ記事

1920年の2月から3月には「熊手の一揆」として知られる反乱が広い地域で起こりました。数週間のうちに反乱は拡大していきました。大砲と小型機関銃をもった共和国国内守備隊は、熊手と槍で武装した反乱側の多くの農民を殺しました。

1920〜1921年の調達計画は、もし履行されたら農民を確実に死に追いやるようなものでした。それは、1年間に平均1人の農民に穀物1プード(16キロ)、ジャガイモ1.5プード(24キロ)を自家用に残すというものでした。これは最低必要量の10分の1でしかありませんでした。したがって、農民が1920年の夏以来行った戦いは、生き残るための戦いだったのです。

参考:共産主義黒書
福島原発事故の影響で、東日本から企業や富裕層が西や海外へ移転または移住しているということは、資本の多くが東日本から逃げているということです。残された人々は少なくなった資本を頼りにしながら生活をしていかなくてはなりません。しかし、税金や年金、医療費を考えると数年後は塗炭の苦しみに陥ることでしょう。

ニュース:陳言氏:東日本大震災による経済的損失は甚大


ウクライナの反乱は、ボリシェヴィキが食料をを強制的に調達しようとしたことに対して農民が抵抗することで起こりました。上記にもあるように、彼らは大砲や小型機関銃にたいして熊手と槍で戦いました。最新の武器もなく集団戦の訓練も受けていなければ結果は敗北しかありません。

農民の生きる為の戦いは2年間続きましたが、最後は飢餓に打ち負かされて終ったのです。東日本の経済的なダメージを考えると戦える時間は多くないのです。時間と共に失業や給料の減給が現れてきて立ち上がろうとした時には、力が尽きているでしょう。わずかでも時間とお金があるのなら戦うための投資を行うべきです。

千葉県では勇士がガイガーカウンターで主だった場所の放射線値を測定しています。彼が行うイベントが5月の末に行われます。記事にもありますが、公表されている値との乖離が指摘されています。何が正しくて何が正しくないのか千葉イベントに参加すれば判るでしょう。

リンク月千葉イベント:開催日決定のお知らせ(5月29日)


最新の武器と集団戦を学びたいなら→秋月便り http://www.mag2.com/m/P0007478.html

ソフトバンクの孫正義が提言した「自然エネルギー財団」のニュースはインパクトある内容でした。被災地域に太陽光発電を設置することで、エネルギーの供給問題と雇用対策の両方を解決する、そのための費用もポケットマネーを投じるのですから・・・。福島原発事故が起こっても、計画停電をちらつかせながら原発の必要性をアピールする電力会社や東大の御用学者に対して、自然エネルギーを前面に押し立てているグループを一気にまとめあげ、次の時代も牽引しようとする勢いです。

参考:孫 正義 記者会見 http://p.tl/o1h6

福島原発から漏れた放射能によって汚染された地域からは、資本のある企業、個人は西日本や海外へと移住しています。東日本は、計画停電、農地や漁港の国有化といった計画経済が始まりつつあります。情報もマスコミによって正しいことが伝わってきていません。そのうち経済的に没落した人々に対して食料の配給もはじまるでしょう。まさに北朝鮮に酷似しています。つまり、東日本の社会主義国家化ということです。職には困らないでしょうが強制収容所は避けたいですね。

参考:本当だった震災被災者のシベリアでの雇用の提案
参考:被災3県知事、農地や漁港の一時国有化など求める

原発の影響ばかりに目をとられてしまい、単純に太陽光発電のような自然エネルギーを推進しても、やがては日本は追いつめられます。夏と冬の日照時間が違うことや、日中と夜間では発電量に開きがある自然エネルギーでは、安定して電力を供給できないので、この点を克服しなければどうしようもありません。パフォーマンスに目を奪われて肝心な点を見逃してしまうなら、皆さんの数年後の未来がどれほど悪くなるのか想像すらできてないのでしょう。

おすすめ参考:水素エネルギーによる脱原子力

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ユーゴスラヴィアもまたスターリンのテロルの為に苦しみました。1921年、ユーゴスラヴィア党は禁止され、1921年から1936年まではウィーンに、1936年から1939年まではパリに撤退せざるをえませんでした。

1925年の後、主要なセンターを組織したのはモスクワにおいてでした。西方少数民族共産主義大学や国際レーニン学校の生徒達の周囲に、ユーゴスラヴィアからの移住者の核が形成され、やがて、1929年のアルクサンダル国王の独裁樹立のともなう新しい移住者によって強化されたのです。30年代には2〜300名のユーゴスラヴィア共産主義者がソ連に居住し、コミンテルンや共産主義青年インターナショナルにおいて活発でした。こうして、彼らはソ連共産党に結びついていたのです。

しかし、彼らはユーゴスラヴィア共産党の指導権を争う多くの戦いの為に悪い評判をえており、そうした状況により、コミンテルン指導部の介入は高速的なものとなっていったのです。1925年、最初のチストカ(点検粛清運動)が西方少数民族大学で行われ、数人の学生は排除され、逮捕やシベリアに追放されました。1932年にはあらたな粛清がおこなわれ、16名の活動家が除名されたのです。

キーロフの暗殺の後、政治的移住者に対する統制は強化されました。1936年秋には、テロルが彼らを襲う前に、ユーゴスラヴィア共産党のすべての活動家が点検に付されたのです。政治的移住者の運命は、強制労働を宣告され獄中で死ぬ者や、即座に処刑される者もいました。1938年におけるチトーの党のトップへの上昇は粛清の結果であり、彼が1948年にスターリンにたいして反抗した事実も、彼自身の30年代の粛清の責任を免除するものではないのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ユーゴスラヴィア共産党

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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ポーランド共産主義者は、テロルの猛威に最もさらされた集団の一つでした。弾圧の統計によれば、ロシア人に次ぐ第二位となります。1938年8月16日に、ポーランド共産党(KPP)がコミンテルン執行委員会の緊急投票の結果、公式に解散されました。スターリンは、ポーランド共産党が毒されていると見なしており、常に疑いを抱いていたのです。理由は1917年以前、ポーランドの共産主義指導者達はレーニンの取り巻きに属していたこと、法的保護なしにソ連に生活していたからでした。1923年にポーランド共産党はトロツキーに見方する立場をとり、さらに、レーニンの死去の直前、ポーランド共産党の指導部は反対派に有利な決議を採択していたことも挙げられます。1924年、コミンテルン第5回大会の際、スターリンはポーランド共産党の歴史的指導部を退けたことが、コミンテルンによる統制強化の始まりとなったのです。そして、ポーランド共産党はトロキズムの巣窟と非難されました。

しかし、それだけで多数の指導者がユダヤ系であるこの党を襲った粛正を説明することはできません。つまり、コミンテルンの政策は、ソ連とドイツとに有利になるように立案され、全体としてポーランド国家の弱体へ向けた行動をポーランド支部に押し付ける傾向があったのです。ポーランド共産党の抹殺が独ソ条約調印を準備する必要性に動機づけられていたという仮説は考慮されるべきなのです。スターリンはコミンテルン機関の援助のもとに、犠牲者をモスクワに戻らせるようにして、いかなる情報も犠牲者から漏れることがないように心を配ったのでした。スターリンが自分の思い通りになる将来の政府の中核を作り上げるために、ポーランド共産党を再建する必要を思い立ったのは、1942年になってからのことだったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ポーランド共産党

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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「三人がこの橋を渡るのを拒否した。すなわち、ブロッホという名のハンガリー系ユダヤ人と、ナチに有罪判決を受けた共産主義者の労働者と、名前は忘れたが、ドイツ人教師だった。ナチとSS(ナチの親衛隊員)の怒りはただちにユダヤ人にたいして行使された。われわれは列車に乗り換えさせられ、ルブリンに連れて行かれた。(・・・)ルブリンで、われわれはゲスタポに引き渡された。その時である、ただわれわれだけがゲスタポにひきわたされたのではなく、NKVDがわれわれにかんする書類をもSSに渡したことを確認したのは。こうして、たとえば、私の書類には、さらに、私がノイマンの妻であり、ノイマンはドイツのナチから最も憎まれているドイツ人の一人だ・・・と書かれていたわけである」<マルガレーテ・ブーハー=ノイマン「レ・レットル・フランセーズ」にたいするクラフシェンコの裁判での証言、第14回公判、1949年2月23日の速記録より>

ドイツ人共産主義者と同時にテロルに捕らえられた者として、多くがポーランドから移住したパレスチナ共産党(PCP)の幹部がいました。多くの活動家は逮捕、処刑され、あるいは収容所の中で姿を消しました。パレスチナ共産党メンバーや、ソ連に来た社会主義者=シオニスト・グループを絶滅させようとした系統的政策は、ユダヤ人の自治州であるビロビジャンの創設とともに続けられたユダヤ人少数民族にたいするソビエト政策と関連づけて考えられるべきです。なぜなら、自治州の責任者はすべて告発を受けたからです。ビロビジャン行政委員会議長のヨーシフ・リベルベルク教授は「人民の敵」として弾劾され、サムイル・アウグルスキーはユダヤ=ファシスト・センターに属しているとして告発されたのです。ボリシェヴィキ党のユダヤ人支部全体が解体されました。狙われていた目標は、ソビエト国家が同時に、ソ連外でのユダヤ人士の支援を得ようとしながら、ユダヤ人諸制度の破壊だったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ブレスト-リトウスクの橋のうえで

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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最も悲劇的なエピソードは、ファシズムn反対するドイツ人をヒトラーに引き渡したことでした。1937年以降、ソビエト当局はドイツ国民を追放することを決定しました。2月26日10名がOSO(オソ・特別会議。国家保安諸機関の欠席行政裁判を指す)によって追放の判決を受けました。技術者、技師、コミュニスト、あるいはマルクス−エンゲルス研究所に雇われていた大学人でした。彼らは1936年の間にスパイ行為ないし「ファシスト的活動」のかどで逮捕されたのです。

1937年5月の終わりにフォン・シューレンブルクは、逮捕されているドイツ人で、強制退去措置を希望する新しいリストをソ連側に伝達しました。その中には多数の反ファシストがいました。1937年秋になると、ソビエト側はドイツ人官史が求めるとおり、追放措置を加速することを承諾しましたのです。

ナチ・ドイツとソビエト・ロシアのあいだのすばらしい友好関係は、1939年のソビエト・ナチ条約を先取りするものでした。この条約の署名後、追放ははるかにドラマティックな状況下で継続しました。ヒトラーとスターリンによるポーランドの粉砕ののち、2つの強国は共通の国境をもったことで、ソビエトの牢獄からの被追放者を直接ドイツの牢獄へ移らせることができるようになりました。1939年〜1941年にかけてドイツにたいするソビエトの善意を示す為に、200〜300名のドイツ人共産主義者がゲスタポに引き渡されたのでした。1939年11月27日、両当事者間で新しい協定が署名され、85名のオーストリア人を含む約350名が追放されました。オーストリア人の中にはオーストリア共産党創立者の一人で赤色労働組合インターナショナルの要員になったフランツ・コリチョーナーがいましたが、彼は北極圏に移送されたのちゲスタポに手渡され、ウィーンに移され、拷問されて、1941年6月7日アウシュヴィッツで処刑されました。

ソビエト当局はこれら多数の被追放者がユダヤ人の生まれであることをいささかも考慮しませんでした。ユダヤ人の作曲家で指揮者のハンス・ヴァルターはドイツ共産党のメンバーでしたが、ゲスタポに手渡された後1942年にマイダネック収容所でガス殺されました。同様なケースはほかにも多く存在したのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ドイツ人活動家のナチへの引き渡し

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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スターリンはコミンテルンの中央機関を「整理」したのち、共産主義インターナショナルのそれぞれの支部に襲いかかったのです。最初はドイツ支部でした。ソビエト・ロシアにおけるドイツ人コミュニティはドイツ共産党(KPD)の活動家、亡命してきた反ファシスト、「社会主義建設」に参加するためワイマール共和国を離れた労働者が多数を占めていましたが、1933年以降に逮捕がはじまった時には、それらの長所も彼らの身分を守るもものとはならなかったのです。ソ連に亡命したドイツ人反ファシストの3分の2は弾圧の手に落ちたのでした。

共産主義活動家にかんしていえば、「カーデルリステン(幹部名簿)」という複数のリストので知られています。これらはドイツ共産党支部の指導者ヴィルヘルム・ピーク、ヴィルヘルム・フローリン、ヘルベルト・ヴェーナーの責任のもとで作成されましたが、彼らは処分をうけた共産主義者や弾圧の犠牲者を排除するために、このリストを利用したのでした。最初のリストは1936年9月3日付けであり、最後は1938年6月21日付けえした。50年代の終わりを持つもう一つの記録はSEDの統制委員会によって確定されたもので、1136名を数えたものでした。

逮捕は1937年に頂点を迎え、1941年まで続きました。半数の運命は不明ですが、拘禁中に死んだと推定されます。反し、確信を持って知りうるのは、82名が処刑され、197名が獄中や収容所で死んだこと、132名はナチに引き渡されたことです。別の150名は重い懲罰を受けながらも生延びることができ、刑が満期になった時にソ連を離れることができました。これら活動家の逮捕を正当化するために援用されたイデオロギー的理由の一つは、かれらがヒトラーを失敗させることに成功しなかったという点でした。まるで、ナチの権力獲得にかんしてモスクワに重大な責任がなかったかのようです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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処刑されたコミンテルン要員の多くは「ピャトニツキー、クノーリンとクーン・ベラによって指導された反コミンテルン組織」に属する者と非難されました。また、単にトロツキストや反革命家とみなされた者もいたのです。

クーン・ベラはハンガリー・コミューンの元リーダーであり、1937年に、おそらくスターリンの指示を受けたであろうマヌイリスキーと対立し、非難されていました。マヌイリスキーはクーンがスターリンを批判しているとし、クーンはコミンテルンが有効でない現状の根本原因であると考えた、ソ連共産党の間違った代表制の責任者として、マヌイリスキーとモスクヴィーンを指名したのでした。出席者のうちクーンを弁護する者はおらず、会合の終わりにゲオルギ・ディミトロフは「クーン問題」が特別委員会で審査されるであろうとの決議案を採択させたのです。しかし、クーン・ベラは特別委員会のかわりに会場から出た直後逮捕されてしまいました。そして彼は日付不明の日にルビャンカ(モスクワの中心にある国家保安機関の建物)の地下室で処刑されたのでした。

パンテレーエフ氏によれば、これらの粛正の最終目標はスターリンの独裁へのいっさいの反対派を根絶することであり、過去において、反対派のシンパだった者や、以前トロツキーに近い活動家と関係を持ったの者は「弾圧」が好んで狙った目標でした。ハインツ・ノイマンによって指導されていたドイツ人活動家についても、民主集中派のグループの元活動家につても同様だったのです。当時、GUGB(国家保安総管理局)-NVDの秘密政治部局の第一部門の次長だったヤコブ・マツーソフの証言によると、国家機関において高い地位を占める指導者一人一人は、知らない間に自分に対して使用される書類を集めた文書の対象となっていたようです。同じようにコミンテルンの指導者たちも同じ疑惑のもとに置かれていたのでした。

コミンテルンの非ロシア人の高位責任者たちが積極的に弾圧に加わっていた点も挙げなければなりません。例えば,イタリア人パルミロ・トリアッチはコミンテルンの書記の一人であり、スターリンの死後、テロル的方法に反対した人間としてもてはやされました。しかし、国際赤色救護会の職員、ヘルマン・シューベルトを非難し、会合の席上、彼が弁解しようとするのを阻止したのです。シューベルトは直後に逮捕され、銃殺されました。また、ドイツ人共産党主義者のペーテルマン夫妻は、トリアッチから「ヒトラーの手先」と非難され、彼らは数週間後に逮捕されたのでした。さらにクーン・ベラをめぐる血みどろの争いの際にも出席しており、クーンを死に送る決議に署名したのです。さらにまた、1938年のポーランド共産党の粛正にも密接にかかわっていたのです。トリアッチはモスクワ裁判の第三回裁判の結果を承認し、次のように結びました。「戦争扇動者に死を、スパイに死を、ファシズムに死を!十月革命の成果の注意深い擁護者、世界革命の勝利の確実な保証人である、レーニンとスターリンの党万歳!フェリクス・ジェルジンスキーの業績をつぐ者、ニコライ・エジョフ万歳!」

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンを襲った大テロル
粛正の最終目標

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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1943年12月のキーロフ暗殺を口実に、スターリンやロシア党、コミンテルンは厳しい弾圧を本物のテロルへと移行しました。そしてソ連共産党とコミンテルンの歴史は新たな段階に入ったのです。それまで社会に向けられていたテロルは、ソ連共産党とその全能の書記長がが行使していた独占的権力の当事者達に向けられることになったのでした。

最初の犠牲者は、すでに投獄されたいたロシア反対派のメンバーでした。1936年10月ヴォルクタ地区に集められたトロツキストは一般刑事犯との分離、家族と共に生活する権利を要求してハンストを開始しましたが、4週間後に最初の死亡者がでました。次の秋、1200名の拘禁者が集められ3月の終わりに囚人リストにあげられた25名は、1キロのパンと出発の用意を整える命令を受けた後、銃殺されました。護衛隊は死体にガソリンをかけて焼き、跡形も無い状態にしたのです。女性も容赦されませんでした。処刑された活動家の妻は自動的に死刑に処せられ、12歳を超える反対派の子供たちも同じ扱いを受けました。

スペイン戦争が始まると作戦は新たな展開を見せました。スターリンがヒトラーとの接近を図っていたのに、トロキズムとナチズムを一体化させる作戦に変わったのです。やがて、スターリンが発動した大テロルはコミンテルンの中央機関に達しました。ボリス・スーヴァリヌは、大粛正の犠牲となったコミンテルンのつつましい協力者についての文章を書き「”犠牲者名簿”へのコメンタール」を完成させました。そこには「コミンテルンの殺戮に倒れた人々のほとんどは、プロレタリアのレッテルを掲げる忌まわしい専制により、めったやたらに葬り去られた無数の抹殺の、数百万の勤勉な労働者・農民の殺戮のほんの一部に過ぎない者として消え去ったのである」と書かれていたのです。

1937〜1938年の大粛正のときに弾圧機関の犠牲者になったのは、ただ単に反対派だけでなく、コミンテルン機関と付属機関の職員もまた犠牲となったのでした。たとえば、当時公報・プロパガンダ局の責任者だったアントーニ・クライェフスキは1937年5月26日に投獄されました。外国での任務から帰るやいなや逮捕された者も多かったのです。事務局から共産諸党の代表部まで、あらゆる部局が難を受けました。家族の連帯責任制の原理はすでに一般市民にたいして適用されていましたが、機関のメンバーにまで広げられたのでした。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンを襲った大テロル


ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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教案主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道

1932年以降、フランス共産党は疑わしいないし危険な人間に関する情報を集め始めました。リストはコミンテルンの密使による幹部担当機関の掌握と並行して生まれました。最良の活動家の選抜をめざす幹部部門の設立と並んで、その対極にあたる人々を告発するリストが現れたのです。

1939年6月までにフランス共産党は「追放された挑発者、裏切り者、警察スパイのブラックリスト」とか「フランス労働者組織から追放された挑発者、泥棒、詐欺、トロツキスト」と似ているともいえるブラックリストを発表しました。そして、これらを正当化する為に「我が国における労働者階級と革命組織に対するブルジョアジーの闘いはますます鋭くなりつつある」という単純な論拠を使っていました。

活動家は特別警察の補助要員の仮面をかぶり小チェキストを気取らなければなりませんでした。「容疑者」の身体的特徴、身長、髪、額、眼、その他の特徴を提供し、居住地を含め、すべての有益な情報が告発された個人の捜査を容易にしたのです。容疑者の中には本物のスパイもいましたが、党路線への反対派も含まれていました。30年代には、共産党指導者からナチスと共同するファシストに転向したジャック・ドリオや彼の選挙区のサン=ドニの縄張りに忠実な活動家が狙われ、ついで、トロツキストが狙われるようになりました。ブラックリスト1−8号によると、トロツキストとは「熱狂的で原則の無い破壊活動家、外国スパイ機関のめいれいどおりに行動する牽制と暗殺者の手先の群れ」とされていました。

戦争や独ソの接近を支持したフランス共産党の禁止、さらにドイツによる占領の結果、党は警察的活動を強化せざるを得なくなっていました。レジスタンスに加わった者も含めて、ヒトラー-スターリン同盟の支持を拒否していた活動家は弾劾されたのです。

1945年に共産党は政治的敵対者を「国民からつまはじきする」ために、新しいブラックリストを公開しました。ブラックリストの制度化は、ソビエトの保安機関(チェーカー、GPU、NKVD)による潜在的被告のリスト作成に照応するものでした。これはロシアでの内戦初頭以来開始された、共産主義者の普遍的な実践です。

特殊機関も、コミンテルンも、彼らの行動をスターリンに報告することで、ソ連共産党指導部の最高権力に応えることになりました。1932年、反対派の弾圧に力を尽くしていたマルテミヤン・チューチンは、スターリンとの対立関係に陥りました。彼は綱領案の中で「スターリンはコミンテルンの中で常に教皇と同じ権威を持っていた。(・・・)スターリンはコミンテルンの全指導的幹部を、モスクワにおいてのみならず、どの現地においても、直接的・間接的な物質的従属関係のもとに、その手にしっかり掌握している。」と書いていました。

20年代の終わりから早くも、ソビエト国家の財政的に従属していたコミンテルンは、自立的であるためのいっさいの手段を失っていたのです。警察機関から強く及ばされる圧力の結果、コミンテルン活動家の間には恐怖と不信感が根をおろすようになってきました。同時に密告が人間関係をむしばみ、猜疑心が活動家の頭に入り込んだのです。密告を発動させるのが単に恐怖であることもあったが、活動家によっては同志を告発することを誇りとする者もいました。



参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
フランス共産党のブラックリスト

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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