2010年1月アーカイブ

1932年以降、フランス共産党は疑わしいないし危険な人間に関する情報を集め始めました。リストはコミンテルンの密使による幹部担当機関の掌握と並行して生まれました。最良の活動家の選抜をめざす幹部部門の設立と並んで、その対極にあたる人々を告発するリストが現れたのです。

1939年6月までにフランス共産党は「追放された挑発者、裏切り者、警察スパイのブラックリスト」とか「フランス労働者組織から追放された挑発者、泥棒、詐欺、トロツキスト」と似ているともいえるブラックリストを発表しました。そして、これらを正当化する為に「我が国における労働者階級と革命組織に対するブルジョアジーの闘いはますます鋭くなりつつある」という単純な論拠を使っていました。

活動家は特別警察の補助要員の仮面をかぶり小チェキストを気取らなければなりませんでした。「容疑者」の身体的特徴、身長、髪、額、眼、その他の特徴を提供し、居住地を含め、すべての有益な情報が告発された個人の捜査を容易にしたのです。容疑者の中には本物のスパイもいましたが、党路線への反対派も含まれていました。30年代には、共産党指導者からナチスと共同するファシストに転向したジャック・ドリオや彼の選挙区のサン=ドニの縄張りに忠実な活動家が狙われ、ついで、トロツキストが狙われるようになりました。ブラックリスト1−8号によると、トロツキストとは「熱狂的で原則の無い破壊活動家、外国スパイ機関のめいれいどおりに行動する牽制と暗殺者の手先の群れ」とされていました。

戦争や独ソの接近を支持したフランス共産党の禁止、さらにドイツによる占領の結果、党は警察的活動を強化せざるを得なくなっていました。レジスタンスに加わった者も含めて、ヒトラー-スターリン同盟の支持を拒否していた活動家は弾劾されたのです。

1945年に共産党は政治的敵対者を「国民からつまはじきする」ために、新しいブラックリストを公開しました。ブラックリストの制度化は、ソビエトの保安機関(チェーカー、GPU、NKVD)による潜在的被告のリスト作成に照応するものでした。これはロシアでの内戦初頭以来開始された、共産主義者の普遍的な実践です。

特殊機関も、コミンテルンも、彼らの行動をスターリンに報告することで、ソ連共産党指導部の最高権力に応えることになりました。1932年、反対派の弾圧に力を尽くしていたマルテミヤン・チューチンは、スターリンとの対立関係に陥りました。彼は綱領案の中で「スターリンはコミンテルンの中で常に教皇と同じ権威を持っていた。(・・・)スターリンはコミンテルンの全指導的幹部を、モスクワにおいてのみならず、どの現地においても、直接的・間接的な物質的従属関係のもとに、その手にしっかり掌握している。」と書いていました。

20年代の終わりから早くも、ソビエト国家の財政的に従属していたコミンテルンは、自立的であるためのいっさいの手段を失っていたのです。警察機関から強く及ばされる圧力の結果、コミンテルン活動家の間には恐怖と不信感が根をおろすようになってきました。同時に密告が人間関係をむしばみ、猜疑心が活動家の頭に入り込んだのです。密告を発動させるのが単に恐怖であることもあったが、活動家によっては同志を告発することを誇りとする者もいました。



参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
フランス共産党のブラックリスト

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 ソ連編 はこちら→流水成道

やがて、反対派を犯罪者扱いすることは高位の共産党責任者層まで広がりました。スペイン共産党指導部のホセ・ブリェホスとその同志の多数は1932年、モスクワに召喚され、コミンテルンの絶対命令への忠誠を拒否したので、一括してコミンテルンから除名され直ちにホテルで自宅監禁状態に置かれました。

1931年、コミンテルンはフランス共産党の元へ複数の教官を派遣しました。主であるドミートリー・マヌイリスキーが非公然でパリに現れ、政治局の前で党内に分派活動に精を出している「グループ」があると暴露しました。これによりフランス共産党の自立性は打撃を受け、モスクワとその手の者たちに依存しなければならないような「危機の開始」を演出されたのです。

「グループ」の指導者の一人、ピエール・セロールはコミンテルンの元でフランス共産党代表のポストを与えられるという口実のもとにモスクワに呼ばれました。しかし、セロールは「挑発者」として扱われ、ロシアの厳しい冬を、同行してコミンテルンで働いていた妻の食料切符のおかげで生延びるはめになりました。1932年10月、フランスに帰ることに成功したものの「デカ」であると公然と非難されるはめに陥ったのでした。

同年、多くの共産党では、ボリシェヴィキ党のモデルに従いコミンテルンの幹部担当中央部門に直属する幹部人事部局が創設されました。活動家の完全なカードシステムを作り,全指導者の詳細な伝記的・自伝的質問票を集める任務を負っていました。伝記的質問票は次の5つの項目を含んでいました。

1、出身と社会的地位
2、党における役割
3、教育と知的水準
4、社会生活への参加
5、犯罪と弾圧記録

活動家からの選抜に役立つこれらの全資料はモスクワに集中されていました。1935年、NKVDの最高責任者の一人、メーイェル・トリリッセルは幹部統制を担当するコミンテルン執行委員会の書記に任命されました。彼はミハイル・モスクヴィーンの匿名を使い、情報と告発を収集し失脚の措置を決めていたのです。この部門は並行して、共産主義とソ連の敵である「ブラックリスト」作成の任にもあたっていました。

コミンテルンの各支部は、ソ連の為の諜報要員募集の生け簀(いけす)として役に立ちました。多くの活動家は、赤軍の諜報機関(GRU)なのか、チェーカー(非常委員会)-GPU(国家政治保安部)の外国部なのか、NKVD(内務人民委員部)なのか、それとも他なのか、分からない状態でした。また、凶暴な競争心に駆り立てられており、隣接機関の要員を引き抜いてしまうこともあったのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
全資料はモスクワに

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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スターリンが「首を絞めよう」と試みた最初の人物はレオン・トロツキーでした。孤立し、ますます弱まっていく左翼反対派はGPUの挑発行為の標的となっていたのです。GPUはウランゲリの元将校(本当はGPUの工作員)が率いる地下印刷所をでっちあげ、そこで反対派の文書が印刷されていることにしたのです。1917年10月、反対派はスローガンをもって示威することを決めていましたが、警察の乱暴な介入によりトロツキーとジノーヴィエフはボリシェヴィキ党から除名されました。

1928年1月以降、高名な党員の遠隔地へのあるいは外国への追放という措置がなされました。トロツキーはモスクワから4000キロメートル離れたトルキスタンのアルマーアタに無理矢理連行され、1年後にはトルコへと追放されたのです。彼の同志は、元労働者反対派の党員や民主集中制グループの党員と同様、多くの者が逮捕され、「政治的隔離所」と呼ばれる特殊牢獄へと送られました。

ユーゴスラビア共産主義者のアンテ・ツィリガの場合。1926年ユーゴスラビア共産党のコミンテルン代表としてモスクワに行き、トロツキーが結集していた反対派と連絡を維持したあと、コミンテルンから遠ざかっていきました。コミンテルンからは真の思想論争は遠ざけられ、指導者達に抗う者には威嚇手段を用いるようになっていました。これをツィガリは「奴隷根性制」と呼んだのです。

1930年5月ツィガリは同志とともに逮捕され、ウラルスクの政治的隔離所へ送られました。食事は一年中、朝と晩のパンと粥。昼はまずい魚、缶詰、半分腐った肉からつくられたスープ。パンの1日の配給量は700グラム・・・もちろん量も不十分でした。1934年以降、政治的隔離所の管理規則はほとんどの場合廃止され、拘留条件は悪化しました。獄中者のある者は暴力行為によって死に、ある者は銃殺され、さらにある者は完全な独房に入れられたのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
粛正の始まり

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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フランスではフランス共産党(PCF)の指導者の一人ボリス・スーヴァリヌが新路線に反対。トロイカ(カーメネフとジノーヴィエフとスターリン)が敵対者であるレオン・トロツキーに対して用いた下劣な手法を弾劾しました。ソ連共産党(PCUS)第13回大会の際、ボリス・スーヴァリヌは召還されます。強制的自己批判集会の様相を示す非難の場となり、委員会は彼の一時的除名を宣言しました。

これに対するフランス共産党指導部の反応は「フランス・ボリシェヴィキの鉄のような匿名軍団が形成されるであろう、党が共産主義インターナショナルにふさわしくあろうとすれば、また、ロシア党の光栄ある道に従おうとするならば、フランス共産党は、党内にあって、その法に従うことを拒もうとする全ての者を容赦なく打ち倒すべきである!」と以後の世界党の隊列がどのような精神状態を求められているかを示していました。また、サンジカリストのピエール・モナトは共産党の「軍事化」と一言で要約しまたのです。

1924年夏、コミンテルン第5回大会においてジノーヴィエフは共産党主義運動に浸透しつつあった政治的風俗ををみごとに表現して反対派を威嚇しましたが、それが仇となってしましました。翌年以降コミンテルン委員長の職務から解任されたのです。ジノーヴィエフはブハーリンに取って代わられましたが、やがて、そのブハーリンも同じ結果となったのです。

1928年7月11日、コミンテルン第6回大会の直前、カーメネフは密かにブハーリンに会いました。ブハーリンは電話が盗聴されていることと、GPUに尾行されていることを説明しました。「彼はわれわれの首を絞めるだろう・・・われわれは分裂をもたらすことはできまい。というのは、そうすれば、首を絞められてしまうだろうから。」「彼」とはいうまでもなくスターリンのことです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
”クトー・プローチフ?”(「反対の者はいるか?」)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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第10回大会は党統制委員会の再編を行い「党における統一と権威との強化」を心がけました。統制委員会は、党員の個人的記録を作成・収集し、それらは時がくれば告発状の基本資料に役立つものになりました。大会が終わると、労働者反対派の党員達は嫌がらせや迫害に遭ったのです。8月には統制活動がはじまり、数ヶ月続いた後、共産党員の4ぶんの1が除名されました。これ以後チストカ(粛正)の力を借りることが党生活の不可分の要素となりました。

アイノ・クーシネンは証言によると、「粛正」の会合はは、まず被疑者は名前を呼ばれた後壇上に登り、粛正委員会のメンバーと他の出席者の質問に答えなければなりませんでした。被疑者がとうからの除名に値する行為によって有罪だと認められなければ、投票無しで打ち切られました。反対の場合には誰も被疑者に有利な発言はしません。議長は「クトー・プローチフ?(「反対の者はいるか?」)とだけ尋ね、誰も異を唱えないので、満場一致で断をくだされるのです。

第10回大会の決定の結果はすぐに各所で感じられるようになりました。1922年2月、ガブリエル・ミャスニコフはレーニンの意見に反対し出版の自由の必要性を擁護した後1年間の除名を受けました。ソビエト権力の締め付けは強くなり、コミンテルンはまもなくボリシェヴィキ党と同じ内部規制を採用せざるを得なくなりました。

1923年ジェルジンスキーは、党員が反対派活動をするばあいGPU(ゲーペーウー)に告発する義務を負うように、政治局の正式決定を求めました。この提案はボリシェヴィキ内で新たな危機となったのです。トロツキーは中央委員会に手紙を送り、次に「46名の宣言」が後に続きました。このように開始された討論はロシア党の『新たな潮流」を巡って集中し、コミンテルンの各支部にも反響を呼ぶことになったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
”クトー・プローチフ?”(「反対の者はいるか?」)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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コミンテルンがモスクワの指導のもと、各共産党内に武装集団を維持し、その国の権力に対する蜂起と内乱を準備していたとすれば、コミンテルンもまたそれ自体の内部に、ソ連自体で行使されたいたテロル的手法を導入せざるを得ませんでした。

1921年3月8日から16日まで開かれたボリシェヴィキ党第10回大会の際、党の内部に独裁体制の基礎が築かれました。大会の2日目、レーニンは、グループを構成していず、出版物ももってなかった労働者反対派といわれる綱領の周囲に集まっていた人々と、民主集中制といわれる綱領に集まっていた人々に「同志諸君、今や反対派は必要としない。私の意見によれば、大会は反対派に終止符を打つべき時、反対派に幕を引くべき時が来た、という結論に到達しなければなるまい。反対派はもうたくさんなのだ。」と言い放ったのです。

3月16日大会が終わろうとしていた時、レーニンは2つの決議案を提出しました。1つ目は「党の統一」、2つ目は「我が党の労働組合主義的・アナーキスト的偏向」で労働者反対派を対象にしたものでした。1つ目の決議案は組織されたすべての集団の即時解散を求めていて、応じなければ、党から除名処置を受けることになっていました。除名という制裁は、党員にとって政治的死刑にほとんど等しいものだったのです。以後、共産党内部の一切の反対派は、監視の対象と制裁の対象となったのです。

2つの決議案は党の規約に反する、「自由討論の禁止」を認めさせた決議案にもかかわらず可決されました。この選択は、状況に強いられていたとはいえ、ボリシェヴィキ党員の深い傾向に応えたものであり、ソビエトの未来とコミンテルン各支部とに決定的な重みをもってのしかかることになったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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共産党の機関メンバーがソビエトの特殊機関の作戦の中で利用されるということさえありました。

その実例として、クチェーポフ事件があります。1928年、GPU(ゲーペーウー)は全軍統合同盟(ROVS)指導部を解体することを決定します。1月26日、将軍の姿は見えなくなっていました。多くの噂が飛交っていましたが、「エコー・ド・パリ」紙のジャーナリスト、ジャン・ドゥラージュの調査によると、クチェーポフ将軍はウルガト村まで連行されてソビエト船スパルターク号に乗せられた、2月29日にル・アーヴル港を離れたという事実でした。これ以後一人として、生きている将軍を見た者はいませんでした。

1965年、ソビエトの将軍シマーノフは赤軍機関紙「赤い星」で作戦に関与したことと、セルゲイ・プジーツキーがクチェーポフ将軍の逮捕作戦を遂行したことを明らかにしました。セルゲイ・二コラエヴィッチ・トレチャコフは1929年以降、密かにソビエト側に移り、ソビエト側に情報を与えていたのです。モスクワは提供される詳細な情報によりツァリー派の将軍の移動を把握していたのでした。交通警官を装った自動車修理工のオネルとその兄が服従を拒んだクチェーポフを短刀で殺害し、修理工場の地下に死体を埋めたのです。
 

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クチェーポフの後継者、ミレル将軍の副官にニコライ・スコブリンがいました。しかし、彼はソビエト側の工作員でパリでミレル将軍の誘拐を組織し、1937年9月将軍は失跡しました。次に、疑惑があからさまになってきたスコブリン将軍も失跡したのです。モスクワに着くとミレル将軍は尋問され、射殺されたのでした。(画像:Wikipedia ミレル将軍



参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
武装蜂起を捨てないコミンテルン


ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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共産主義者の暴力の基本は少しも変わること無く、暴力の正当化、階級憎悪の日常的実践、内戦とテロルのこうした理論化は、1936年以降のスペインにおいて適用されたのです。コミンテルンは有能な多くの幹部をスペインに派遣しました。

将来の武装蜂起のための現地幹部の選抜・養成・準備といった活動はすべて、GROU(グルー)と呼ばれるソビエトの秘密機関との連絡のもとに行われました。トロツキーの庇護のもとに赤軍第4部として創設されたGROU(グルー)は任務を完全に放棄することは決してありませんでした。1970年代初頭にも、フランス共産党が信頼する若い幹部は、秘密機関の手に委ねられたソビエトの特殊部隊スペツナズのもとでソ連の訓練を受けていたのです。反対にGROU(グルー)は兄弟党に提供できる軍事専門家を有していました。マンフトーレ・シュテルンは1923年ハンブルク蜂起のためドイツ共産党のもとに派遣されたあと、次いで中国と満州ではたらき、やがてスペインにおける「クレベール将軍」となったのです。

これら非公然組織のメンバーは極端な場合、強盗に近いことが多々あり、本物の強盗に変貌した者さえいました。最も顕著な実例として1920年代後半における中国共産党の「赤衛隊」あるいは「赤い中隊」の場合です。党の行動の中心地とされていた上海で、秘密結社、青幇(チンパン)の顧順章(こじゅんしょう)に指導された手下どもは、国民党系の同類の藍衣社と対決し、テロルにはテロルを、待ち伏せには待ち伏せを、個人的暗殺には個人的暗殺を報いるというふうに、怪しげな戦闘を繰り返しました。これらの闘いはソ連の上海領事の積極的な支援を得ていたのです。

1931年4月顧順章(こじゅんしょう)の転向(国民党側についた)ののち、上海で後を継いだのは5人の共産党幹部からなる特別委員会でした。しかし、1934年には中国共産党の都市機関は崩壊し、共産党武装グループの最後の2名の指導者、丁黙村(ていもくそん)と李士群(りしぐん)も国民党の手に落ちたのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
武装蜂起を捨てないコミンテルン

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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1920年代初期におけるヨーロッパと中国での壊滅的打撃にもかかわらず、コミンテルンは落胆することなく己の路線を追求し続けました。全ての共産党は秘密の軍事機構を党内に維持しており、そのモデルとなったのはドイツ共産党(KPD)です。ドイツ共産党はソビエト軍事幹部の緊密な統制下に、国内に膨大な「M(軍事)機関」を創設しました。その任務は敵対的活動家と党内に潜入した警察スパイの一掃、また赤色戦線という準軍隊的集団への幹部の配置を目的としていたのです。

共産主義者は極右や出現し始めたナチズムと闘う一方で「裏切り者社民」ないし「社会ファシスト」と決めつけていた社会主義者の会合を襲ったりしたのです。1933年以降は「真のファシズム」の実態を明るみにし、「ブルジョワ」民主主義を守る為には社会主義者と同盟する方が賢明であると証明しましたが、共産主義者はこのタイプの民主主義を根底的に認めていませんでした。

フランスでもフランス共産党(PCF)は武装グループを創設しました。組織者は党初期のアルベール・トゥランでした。1924年1月11日の共産党集会において、アナーキストが異議を申し立て、トゥランが防衛隊に助けを求めたところ拳銃で武装した集団が演壇にとびあがり、異議を唱えた者に発砲し、2名の死者と数人の負傷者を出しました。また、1925年4月23日、フランス共産党の防衛隊は極右組織の選挙集会終了時を狙って混乱を引き起こしました。この時も数人の活動家は拳銃を使用したため4人の犠牲者がでました。

1926年には国会議員に選出されたジャック・デュクロに、反ファシスト青年隊と反ファシスト防衛集団とを組織する任務を与えました。これと並行してデュクロは、内戦の技術と、街頭闘争を記述し分析する内容の雑誌「赤い戦士」を刊行したのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
武装蜂起を捨てないコミンテルン

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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強制捜査いらだつ小沢氏側近

民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」が購入した土地をめぐる疑惑で、東京・永田町と北海道の事務所が東京地検特捜部の捜索を受けた民主党の石 川知裕衆院議員(36)。厳しい表情で捜索に立ち会うために、東京の事務所に入った。事務所前は、集まった多くの報道記者らで騒然となり、近くにいてコメ ントを求められた小沢氏の側近議員が「うるさい!」と声を荒げるシーンもあった。

出典:産経 2010.1.13

いよいよ小沢氏への包囲網が狭まってきているようです。某雑誌などでは小沢氏を擁護するような記事が記載されていました。そのような記事で庶民を欺こうとする手法も古くさいのですが、そのようにして手を打つしかないのでしょう。いづれにせよ民主党はリーダー不在のまま漂流するしかなさそうです。夏の参院選は民主敗退の声もささやかれ始めました。

中国もバブル崩壊の兆しが見えてきました。2010年5月1日〜10月31日まで上海万博が開催されます。上海万博までは崩壊しないというのが一般投資家の楽観的な判断となっているようですが、どうなることでしょう。中国側としては小沢氏との太いパイプがある間にバブルを崩壊させて、その尻拭いを日本に充てようとする思惑もあるようです。

参考:中国不動産バブルは近いうちに崩壊か?。

今後も多くの人が涙を飲むことになるのでしょうが、この政権を支持したのも私達国民ということです。既存の政党や政治家に期待しても何も変わらないことに早く気づくことができれば、その速度に応じて被害は軽減されるでしょう。土壌(国民)が汚染されていれば、苗(政治家)も汚染されるというわけです。

教育における革命を読んで将来を考えてみましょう。

中国

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画像:1926年頃の蒋介石 Wikipediaより

ヨーロッパにおける失敗の後、コミンテルンはスターリンに突き動かされるように、中国という新しい戦場を見つけました。当時の中国は無秩序のただなかにあり、内戦と社会紛争に引き裂かれていたのです。

コミンテルンの責任者達とソビエト各部局によって指導されていた中国共産党は(まだ毛沢東の指導はうけていない)1925〜26年には、民族主義党=国民党とそのリーダーである蒋介石との緊密な同盟関係へ向かっていました。

共産党の戦術は、国民党を包囲して、革命のトロイの馬い仕立て上げることだったのです。コミンテルンの密使、ミハイル・ボロジンは国民党顧問の役割を占めるまでになりました。ソ連との協力政策を支持していた国民党左派は、1925年に党指導部を掌握すると、共産主義者はプロパガンダを強化し、その影響力を強めて、国民党第2回大会を支配するまでになりました。

しかし、共産主義者の影響力が拡大することに不安を抱いていた蒋介石は、共産主義者が彼を権力から遠ざけようとしていることを見抜き、先手を打ったのです。1926年3月12日、蒋介石は戒厳令を布き、国民党内の共産主義分子とソビエト軍事顧問まで逮捕させ、党内左派の指導者を左遷し、党内での共産主義者の特権と行動を制限するための8項目協定を押し付けました。こうして、蒋介石は国民党の指導者となり、新しい力関係を確認したミハイル・ボロジンは協定を承認しました。

1926年7月7日蒋介石は「軍閥」の支配下にある中国北部の征服のために民族主義軍隊を進攻させます。中国農村部には農地改革の波が渦巻いており、「土豪を打倒し、田地を分ける」とする共産党の政策を国民党右派は反対していたため両者の同盟を危うくしつつありました。1927年3月21日、民族主義軍の一個師団と蒋介石が上海に入りました。状況を我が手に取り戻そうとする蒋介石は4月12日広東で上海作戦(上海クーデター)を再演し、共産主義者は追い払われ打ち負かされたのです。

にもかかわらず、スターリンは反対派からの面子を失うまいとして、国民党との同盟を破棄した後、二人の密使を派遣し蜂起の動きを立ち上げようとしました。「秋の収穫期の反乱」は失敗におわりましたが、二人はボリシェヴィキ党の第15回大会が開催される瞬間に、自分たちの指導者に勝利の報告書をもたらそうと広東で蜂起を開始させるまで粘ったのでした。このことからもボリシェヴィキが、一切の人命に対し、自己の支持者の生命まで何とも思わない現象を遺憾なく証明しています。

1927年12月10日の晩、体制に忠実な軍勢は、労働者赤衛隊が予定していた集結地点に人をかまえました。ハンブルクにおけるように、蜂起参加者はイニシアティブの点では恵まれたものの、「ソビエト共和国」樹立の宣言は住民の間に反響を呼び起こさず、国民党の反撃に遭い数千人が殺されたのです。

この壊滅的な失敗の後、共産党は都市から撤退し、1931年以降、紅軍によって守られた「解放地区」を樹立するまで遠隔の農村地帯で再組織しました。こうして、革命とはなによりもまず、軍事機構の政治機能を制度化する軍事問題であるという考え方が早期に根をおろしたのです。のちになって毛沢東の「権力は銃剣がつくりだす」という有名な言葉がありますが、権力の奪取と維持にかかる共産主義的な見方の本質を示しています。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
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第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
中国

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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画像:Wikipedia

エストニアのあとコミンテルンの行動はブルガリアに移りました


1923年6月、共産党と農地党との連立内閣を率いていたアレクサンダル・スタンボリスキーは暗殺され、軍隊と警察の支持をうけたアレクサンダル・ツァンコフがとって代わりました。9月に共産主義者は蜂起を起こしたものの1週間続いただけで、厳しく弾圧されました。そして、1924年以、共産主義者は降戦術を変え、直接行動と暗殺に訴えることにしました。

1925年2月8日ゴデッチ郡庁の攻撃により4名の死者、11日ソフィアでブルガリア・ジャーナリスト組合の委員長でもある代議士のニコラ・ミレフが暗殺。3月24日ブルガリア共産党が、テロリスト行動と共産主義者の政治目標との間に関係があることを暴露し、4月の初めには、国王アレクサンダル一世の暗殺が失敗、15日には国王側近の一人コスタ・ゲオルギエフ将軍が暗殺されました。

4月17日ソフィアの大聖堂・聖ネデーリャ教会においてゲオルギエフ将軍の葬儀の際、爆発とともにドームが崩壊し140名の死者がでました。このテロ行為は共産党軍事セクションによって組織されたもので、首謀者とみなされた指導者、コスタ・ヤンコフとイヴァン・ミンコフは逮捕の際、武器をてにしたまま殺されました。ブルガリアでの数年間の政治暴力のなかでも、最も激しい出来事でした。

このテロルによって凶暴な弾圧が正当化されました。3000名の共産主義者が逮捕され、3名が公開で絞首刑されました。コミンテルンの機関員たちによれば、このテロルに責任があるのは、ブルガリア共産主義者の指導者ゲオルギ・ディミトロフでした。彼はウィーンから党を非公然に指導しており、1948年12月に事件の責任が自身と軍事組織のものであると認めたのです。

別のソースでは、大聖堂にダイナマイトを仕掛けさせた男はチェーカーの外国人支部の責任者であり、次いで GPU(国家政治保安部)の副総裁となり、1927年に赤旗勲章を授けられたメーイェル・トリリッセルだったという。30年代には、彼はコミンテルンの10名の書記の一人であり、NKVD(内務人事委員部)のためにコミンテルンを常時統制する役割を果たしました。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
ブルガリア

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画像:Wikipedia

ドイツに続いて、エストニア共和国は2度目の侵略を被る機会となりました。

1度目は1917年10月27日エストニアソビエト執行委員会がタリンで権力を掌握した後、議会を解散させ、共産主義者に不利な選挙を無効にしましたが、ドイツ軍の遠征の前に共産主義者は退却したのです。ドイツ軍が到着する直前の1918年2月24日、エストニア人は独立を宣言ました。ドイツ軍の占領は同年11月まで続いたあとドイツ皇帝の敗北を機に撤退せざるを得なくなり、再び共産主義者が直ちに勢いを取り戻しました。

11月18日、ペトログラードで政府が樹立、赤軍の2個師団がエストニアへ侵入しました。1919年1月に首都30キロにまで迫りましたが、ソビエト軍はエストニアの反撃によって進撃を停められました。2度目の攻撃も失敗に終わったのです。このとき、占領していた地域ではボリシェヴィキ殺戮行為を行っていました。撤退前夜のタルトゥで250名を、ラクヴィレ地区では1000名を殺害しました。殺された人質は、腕や脚を折られ、ときには目をえぐられるなど拷問の痕がありました。

ソビエト軍は敗北しましたが、エストニアを支配圏に取り込むことを断念していませんでした。1924年4月、モスクワとの間で行われた秘密会議の際に、エストニア共産党は武装蜂起の準備を決定しました。目的はソビエト共和国を宣言しソビエト・ロシアへの加盟を求めることで、赤軍の派遣を正当化することにありました。しかし、クーデターはその日のうちに失敗したのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
エストニア

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いよいよ、今日1月10日はComicCity大阪77が開催されます。

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最近、「観測史上初の大雪」といったニュースを耳にすることが多くなりました。温暖化が熱塩循環を遅らせることで冬の寒さを厳しくしているのです。このような現象は地表を乾燥化させ食料の生産量を減少させてしまいます。そして、広範囲の地域で飢餓を経験し、さらに栄養不足からくる免疫力低下が疫病を蔓延させる可能性も指摘されています。

エネルギーの分野に目を向けますと、石油エネルギーの枯渇が明確になってきておりイラクやイランの地下に眠る資源をめぐる争いを止めることは困難な状況といえるでしょう。そして、代替エネルギーとして政府は原子力エネルギーを推し進めています。しかし、皆さんもご存知のように放射能が人類にもたらす脅威は、広島や長崎に落とされた大量破壊兵器や、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故といった歴史から学ぶことができます。にもかかわらず、要素還元主義の問題として指摘されているように己の利益しか考えられなくなってしまった集団は歴史から学ぶことを忘れ同じ過ちを繰り返そうとしているのです。

モアイ像で有名なイースター島は、それを建てる為に大量の木材を伐採し森を失いました。森を失った島には、肥えた土地は雨水とともに海に流れてしまったので痩せた土しか残りませんでした。増え続ける人口と深刻な食料不足により耕作地域や漁場を巡る争いが生じるようになり、やがてこの文明自体が終わりを迎えたのです。時間や空間は違えども、同じ歴史を現在に生きる私達も経験する時が来るかもしれません。

アメリカは基軸通貨ドルを用いた帝国循環のシステムを構築しました。帝国循環とは、かつて大英帝国がインド支配で行った経済手法です。インドはイギリスとの交易で黒字でしたが、インドの資本家はイギリスのポンドでロンドンの銀行に預け、それらの資金はイギリスの産業や教育に投資されました。つまり,インド人の財とサービスはイギリスに吸収されていたのです。これと同じことがアメリカと日本の間にも存在していました。日本人がせっせと働いて黒字化した財は、アメリカのドルに換えられ資本の流出となっていたのです。しかし、この帝国循環も石油の枯渇とともに終わりを迎えました。

大量生産大量消費型の社会が終わります。これによって経済は回らなくなるでしょうし、大量の失業者も出てきます。しかし、働く場所がないのですから賃金を得ることができず生活が成り立たなくなってきます。貧困層は増加し、それとともに犯罪者数、自殺者数も右肩上がりとなるでしょう。若者を中心に薬物汚染が拡大し闇経済が幅を利かせていくのです。老人や子供といった弱者は悲しい日々を過ごさなければなりません。

頼りにしている政治も公約違反が続き、内閣支持率の低下と共に能力の低さを露呈してしまいました。実際、解決方法が見当たらず問題を先送りし続けることしか出来なくなっているのが正直なところではないでしょうか。今後の社会はカオス化し、精神が不安定になった人々は新しいイデオロギーで自己を正当化し始めます。戦争、内戦、恐慌、疫病など、歴史の闇が再び顔を覗かせるのでしょうか。

人の指は生えてくるのではありません。指と指の間の細胞が自己破壊することで指となるのです。特定の細胞が死ぬことで全体を有効に活かしているのです。地球が有限である以上は自然淘汰は避けられません。今後,多くの物質や生き物が淘汰されていくでしょう。かつて地球上を支配していた恐竜は大量死滅を受け入れることで鳥へと進化しました。巨大化した経済も社会も、そこに生まれ生きている人類も自然の前では平等なのです。

炭素文明の終焉が迫ってきています。次の文明は高度情報型社会である水素文明です。しかし、漠然と待っていればやって来るものではありません。何もしないのであれば石油は枯渇し、新しい文明の基礎を築く為のエネルギーが無くなるのです。つまり、人類は木材を燃やしてエネルギーを得ていた時代へと退化する可能性もありうるのです。考えれば分かりますが、現在地球上に生きている70億近い人口を養うだけの森林はありません。自らの生存率を向上させるには、行動が必要なのです。
 

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水素文明とはどのようなものか、「水素革命近未来!」を読んで頂ければ何となく分かるかと思います。「なんとなく」と表現されるように、水素文明は本を読んだくらいでは分からないくらい広大なものです。多くの人が遠隔学習や教育を受けることで理解できてくるのです。ですから、最初に必要なのは教育であり、「水素革命近未来!」のサブタイトルは「教育における革命」なわけです。そして、教育における革命の次が「ソフトウェアにおける革命」となります。

本日の ComicCity大阪77 で「ソフトウェアにおける革命」が配布されますので是非、橘研究所のブースへお立ち寄りください。今回はブースにて参加させて頂くことになりました。皆さんとお会いできることを楽しみにしています。
 

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1921年3月、ドイツにおいてクーン・ベラの指導の下に、コミンテルンが大規模な革命行動を計画しました。このザクセン州で展開された「3月行動」はハレ=ライプチヒ間特急列車へのダイナマイトによる暴力的手段を用いたにもかかわらず失敗に終わりました。この失敗の結果、コミンテルン内では最初の粛正が行われ、ドイツ共産党の創立者の一人であるパウル・レーヴィがコミンテルンから遠ざけられました。(図=ザクセン州 Wikipediaより)

この頃には、インターナショナルの各国支部にほかならない共産諸党は、コミンテルンへの政治的、組織的従属(やがては服従)に落ち込んでいくことになりました。コミンテルンは紛争に断を下し、各党の政治路線を最終的に決定していたのです。

1923年1月、フランス軍とベルギー軍は、ベルサイユ条約で定められた賠償支払いとして、ルール地帯を占領しました。この結果、「フランス帝国主義」に対抗するドイツの民族主義者と共産主義の接近を招きます。そして、もう一つの結果として、住民の受動的抵抗を呼び起こすことになりました。不安定な経済は根底から悪化し、8月には1ドル1300万マルクまで貨幣価値は暴落しました。ストライキ、デモ,暴動が相次ぎ、8月13日には革命的な空気のなかでヴィルヘルム・クーノー政府は倒れたのです。

モスクワでは新たな10月革命を考慮すべきとし、密使と内戦の専門家がドイツに送られました。大量の武器を入手する為には、形成途上にある左翼社会主義者と共産主義からなる労働者政府を頼りにすると定められていました。

この時、ザクセン州とチェコスロバキアを結ぶ鉄橋を爆破し、チェコスロバキアの介入をもたらし混乱を増大させることが狙いでした。勝利を信じていたモスクワでは赤軍を西部国境に動員し,蜂起の援助に備えていました。しかし、グスタフ・シュトレーゼマンの政府はザクセンに非常事態宣言をし直接支配下におき、また左翼社会民主主義者が共産主義者の言いなりになることを拒否した為、策動は失敗に終わりました。情報の伝達が上手くいかないまま、ハンブルクの共産主義者は23日蜂起しましたが、31時間後には鎮圧され蜂起の目標を達成できませんでした。第二の十月革命は起こらなかったのです。

1月10日COMIC CITY 大阪77 橘研究所のブースでお会いしましょう!

 
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
ドイツ

共産主義黒書 ソ連編 はこちら→流水成道

 

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クーン・ベラとその同士たちが第二ソビエト共和国の樹立を試みていた頃、レーニンは革命を全世界に広げるため国際的な組織を展開しようとしていました。共産主義インターナショナル、別名コミンテルン、あるいは第三インターナショナルと呼ばれるものです。(写真:Wikipedia)

このコミンテルンの創立大会は、緊急を要するプロパガンダ上の必要性と、ヨーロッパにおける自然発生的な諸運動をひきつけようとするものでした。ですから、真の創立は1920年の第2回大会で、21か条の加盟条件採用の時点といえます。
 
コミンテルンは、レーニンが国際的な秩序を転覆させる道具として構想したものであり、その政治的教説はボリシェヴィキのそれを忠実にしたものでした。また、ここで付け加えるなら「他の道具」とは、赤軍、外交、スパイ活動等が挙げられています。
 
この第2回大会では「共産主義インターナショナルは、蜂起とプロレタリア独裁のための国際党である。」と告げています。ですから、21条件のうち第3はヨーロッパとアメリカのほとんどの国は、階級闘争は内戦期に入っている、としたうえで、共産主義者はブルジョア的合法を信頼することはできないとし、内戦に突入する義務を宣言しました。また、12番目の条件は、厳しい内戦期において役割を果たす為に共産党を中央集権的に組織すること、軍事規律に近い規律を認めること、党員の全会一致の信頼をえなければならないこととしています。さらに、13番目の条件は、「全会一致」になりえない場合を考慮して、共産諸党は私心のある、ないしプチ・ブルジョア的分子を遠ざけるために、組織の定期的粛正を行わなければならない、としています。
 
1921年6月モスクワで開かれた第3回大会では方向性はさらに明確になっていました。「戦術に関するテーゼ」として政治権力を獲得するのはプロレタリアートの任務であろうとする考え方を植えつけなければならないとし、「共産党の構造、方法、行動に関するテーゼ」では内戦に突入した時、正規の赤軍を形勢することは問題となりえないであろうことと、その準備活動の必要性を明らかにしていました。
 
 
次回は「ドイツ」です。
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参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
 

 革命的にボランティアからなる新しい軍隊を組織され、「レーニンの息子たち」の名で知られるようになりました。「レーニンの息子たち」は元船員だったチェルニー・ヨージェフに服従しており、クーン・ベラとは対照的に、最も過激な共産党指導者サムエリ・ティボルに接近しました。クーン・ベラは「レーニンの息子たち」を解散させ、反発したチェルニーとの交渉の結果、後者の手の者は軍隊へと合流することを選択しました。

 
サムエリ・ティボルはハンガリー赤軍によって占拠されたソルノクの町に行き敵とみなされたルーマニア人との強力で非難されるベキ名士を数多く処刑しました。赤軍指導者はサムエリのテロルを抑えようと試みた様ですが、彼はハンガリー中をまわり、集団化に従わない農民達を絞首刑に処しました。
 
反対勢力の増大とルーマニア部隊を相手にした軍事情勢の悪化を受け、革命政府はついに反ユダヤ主義を利用します。「プロレタリアート独裁の神聖な大義のために生命を捨てたくないというなら、彼らを皆殺しにせよ!」クーン・ベラは、食料補給にやってきた5000名のポーランド系ユダヤ人を一網打尽にし財産を没収し、追放したのです。
 
チェルニーは「レーニンの息子たち」を再組織しようと試み、7月半ばに再徴収を公式紙に掲載しましたが、翌日には公式に否定する文章が公表されました。1919年8月1日、クーン・ベラはイタリア軍事使節団に保護されながらブダペストを離れ、1920年夏にはロシアへと亡命しました。ロシアにつくと直ちに、南方戦線における赤軍政治委員に任命され、降伏してきた白軍の将校たちを処刑させて、名をあげました。一方のサムエリはオーストリアに逃げようとしましたが、2日に逮捕され、自殺しました。
 
 
次回は「コミンテルンと内戦」です。
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参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
ヨーロッパにおける革命
ハンガリー

 連合国との戦争に敗北したハンガリーにとってトランシルヴァニアの強制割譲は承認し難かった。これによりハンガリーは、ボリシェヴィキが革命を輸出した最初の国となったのです。

1918年初頭からボリシェヴィキはモスクワに外国人共産党主義者グループ連合を結集させており、1918年10月以降、その中のハンガリー人グループをハンガリーへ送りました。11月にはハンガリー共産党(PCH)が創設され、クーン・ベラが指導者となりました。ボリシェヴィキの提供する財政支援を受け、ハンガリー共産主義者はプロバガンダを発展させ、影響力を強化しました。1919年2月ボリシェヴィキに反対だった社会民主党の公式紙、は共産主義者に動員された失業者と兵士の群れに襲われました。目的は新聞の支配権を握るか、印刷所の破壊にあったのです。
 
クーン・ベラとそのスタッフは逮捕されましたが、ベラは行動を続行することができ、さらに状況を転覆させることもできたのです。獄中にありながら、ハンガリー共産党と社会民主党の合同を成し遂げたのです。カーロイ大統領は辞任し,評議会共和国の創設、共産主義者の釈放、さらにボリシェヴィキ・モデルに従った革命統治評議会の組織が開かれたのです。ハンガリー・ソビエト(トナーチ)共和国は1919年3月21日から8月1日まで、133日続いたのでした。
 
クーン・ベラから世界プロレタリアアートの指導者として挨拶されたレーニンは、社会民主主義者と「プチ・ブルジョア」を銃殺するように勧告。「この(プロレタリアート)独裁は、搾取者、資本家、大地主とその手先の抵抗を粉砕するために、迅速で断固とした容赦ない暴力の行使を前提とする。このことを理解しない者は誰も革命家ではない」としてテロルの行使を正当化しています。
 
 
 
次回は「ハンガリー(続き)」です。
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参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
ヨーロッパにおける革命
ハンガリー

 

1848年のマルクスの「共産党宣言」にありますスローガン「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」に応じるようにレーニンは革命をヨーロッパへ、そして全世界へと広げようとしました。ボリシェヴィキ革命が権力の座にとどまり発展するためには必要と考えていたのです。レーニンが特にに考えていたのは良く組織されたプロレタリアートとめざましい工業力をもったドイツでした。この一時的な必要性は、やがて世界革命という政治計画へと変わっていったのです。

1918年、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリーの二重帝国の軍事的敗北はヨーロッパに革命をともなう政治的現象を引き起こします。これにより革命は自然発生的に起こるように思われていました。
 
ヨーロッパにおける革命
 
ドイツ帝国の敗北と社会民主党が指導する共和国の出現は、ウルトラナショナリスト陣営のグループにおいても、ボリシェヴィキの独裁をたたえる革命派にあっても、激しい反応を見せました。
 
1918年12月ベルリンではスパルタクス団の綱領を発表したグループが独立社会民主党を去り、他の諸組織と合同でドイツ共産党(KPD)を創設。1919年1月スパルタクス団はベルリンで蜂起を企てたものの粉砕されました。1919年4月13日、ドイツ共産党の責任者の一人、オイゲン・レヴィネは銀行を国有化し、赤軍を創設し始めましたが状況は同様でした。
 
この、ミュンヘンコミューンは軍事的に粉砕され、逮捕されたレヴィネは軍法会議で裁かれ、死刑を言い渡されました。
 
次回は「ハンガリー」です。
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参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
ヨーロッパにおける革命

深聞ブログを発行しました。画像をクリックすると元の記事へ移動します。

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倉橋 拝

 貸借対照表上、誰かの収益は誰かの損益となり、総和はゼロとなります。ですから国の赤字分は、企業/株主、個人の黒字分として存在することも意味します。(陸戦隊参照)

銀行は個人から預かった資金を(分かり易くするために黒字の企業等の表現は省略)倒産リスクのある企業に貸し出すより国が発行する国債を引き受けることで、倒産リスクとは無縁な投資先としての国を選択し、少ないリスクで大きなリターンを得る方を優先しました。このため民間企業にはお金が回らず、研究開発費や設備投資など予算が不足し新しい技術や商品の開発ができず利益を得ることが難しくなりました。
 
そして、多くの企業は倒産し失業者も増加しました。もし、多くの資金が企業に入り企業活動を促進していれば、例え倒産という憂うべき状況になっても研究結果や設備、工場といった資本は残り、新しい企業がそれらを引き継いだりすることで雇用は守られる場合もあります。
 
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本来、銀行は与信管理を行い民間企業に融資することで資本主義経済を活性化しなければならないのですが、それよりも国に貸し出すことが手間もかからず楽に利益を得られる方を選択したと言ってもいいでしょう。一方、国債を発行した国は得た資金を子供手当や高速道路の無料化といった有権者が喜びそうな提案に充てることで政権を維持しようとしていますが、個人にお金をばらまいても商品やサービスなどに消費されるだけで、イノベーションとはほど遠いものになります。(画像:Wikipedia)
 
国借金はおよそ1000兆円に膨れ上がっていますが、これが民間企業に投資されていれば日本だけでなく人類にも大きなリターンが得られていたかもしれません。
 
そもそも、国債の発行は原則として禁止されています。
 
ー引用開始ー
 
 財政法第4条は「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。」と規定しており、国債発行を原則として禁止しています。財政法第4条の但し書きは「公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる」と規定しており、例外的に建設国債の発行を認めている。国債は将来の世代の負担となるが、公共事業により建設される社会資本は将来の国民も利用できるから、建設国債は正当化できる。一方、一時的に赤字を補填するために発行される赤字国債は、将来の世代に負担させることを正当化しがたい。しかし、1965年度の補正予算で赤字国債が戦後初めて発行された。1975年には、赤字国債の発行を認める1年限りの公債特例法が制定され、発行された。その後も特例法の制定により発行されている。
 
ー引用終わりー
 
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日本は過去の戦争で戦費調達の為に「戦時国債」を発行していました。これが発行されていた為、戦争を継続することができ長期化していったのです。そのうえ敗戦後は国債の価値は喪失し、経済に大きな影響を与え、そして社会も混乱しました。この反省から国債の発行は禁止されたのですが、1965年度から戦後初めて発行され、それが現在でも続いているのです。(画像:Wikipedia)
 
無形化世界では洗脳戦争や経済戦争などが挙げられますが、今回も経済戦争において国は戦時国債を発行し戦争を長引かせ、その結果多くの人が空襲で家を失い人命を落としています。日本は再び同じ過ちを繰り返しているのです。