1932年以降、フランス共産党は疑わしいないし危険な人間に関する情報を集め始めました。リストはコミンテルンの密使による幹部担当機関の掌握と並行して生まれました。最良の活動家の選抜をめざす幹部部門の設立と並んで、その対極にあたる人々を告発するリストが現れたのです。
1939年6月までにフランス共産党は「追放された挑発者、裏切り者、警察スパイのブラックリスト」とか「フランス労働者組織から追放された挑発者、泥棒、詐欺、トロツキスト」と似ているともいえるブラックリストを発表しました。そして、これらを正当化する為に「我が国における労働者階級と革命組織に対するブルジョアジーの闘いはますます鋭くなりつつある」という単純な論拠を使っていました。
活動家は特別警察の補助要員の仮面をかぶり小チェキストを気取らなければなりませんでした。「容疑者」の身体的特徴、身長、髪、額、眼、その他の特徴を提供し、居住地を含め、すべての有益な情報が告発された個人の捜査を容易にしたのです。容疑者の中には本物のスパイもいましたが、党路線への反対派も含まれていました。30年代には、共産党指導者からナチスと共同するファシストに転向したジャック・ドリオや彼の選挙区のサン=ドニの縄張りに忠実な活動家が狙われ、ついで、トロツキストが狙われるようになりました。ブラックリスト1−8号によると、トロツキストとは「熱狂的で原則の無い破壊活動家、外国スパイ機関のめいれいどおりに行動する牽制と暗殺者の手先の群れ」とされていました。
戦争や独ソの接近を支持したフランス共産党の禁止、さらにドイツによる占領の結果、党は警察的活動を強化せざるを得なくなっていました。レジスタンスに加わった者も含めて、ヒトラー-スターリン同盟の支持を拒否していた活動家は弾劾されたのです。
1945年に共産党は政治的敵対者を「国民からつまはじきする」ために、新しいブラックリストを公開しました。ブラックリストの制度化は、ソビエトの保安機関(チェーカー、GPU、NKVD)による潜在的被告のリスト作成に照応するものでした。これはロシアでの内戦初頭以来開始された、共産主義者の普遍的な実践です。
特殊機関も、コミンテルンも、彼らの行動をスターリンに報告することで、ソ連共産党指導部の最高権力に応えることになりました。1932年、反対派の弾圧に力を尽くしていたマルテミヤン・チューチンは、スターリンとの対立関係に陥りました。彼は綱領案の中で「スターリンはコミンテルンの中で常に教皇と同じ権威を持っていた。(・・・)スターリンはコミンテルンの全指導的幹部を、モスクワにおいてのみならず、どの現地においても、直接的・間接的な物質的従属関係のもとに、その手にしっかり掌握している。」と書いていました。
20年代の終わりから早くも、ソビエト国家の財政的に従属していたコミンテルンは、自立的であるためのいっさいの手段を失っていたのです。警察機関から強く及ばされる圧力の結果、コミンテルン活動家の間には恐怖と不信感が根をおろすようになってきました。同時に密告が人間関係をむしばみ、猜疑心が活動家の頭に入り込んだのです。密告を発動させるのが単に恐怖であることもあったが、活動家によっては同志を告発することを誇りとする者もいました。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
フランス共産党のブラックリスト
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 ソ連編 はこちら→流水成道











