時々考えてしまうのですが、人類は自然と戦争しているのではないかと。人類がその力を時代の流れとともに強大化し、振るえば振るうほど自然も応戦してくるのです。しかし、自然は人類の絶滅を目論んでいるのではなく試練を与えている気がしてなりません。いつか人類の思想や技術といったものが地球に生きるあらゆる命と共生できるようになるまで。

<二酸化炭素排出量>08年度は90年度比7.4%増
経済産業省は30日、08年度のエネルギー需給実績の速報値を発表した。最終エネルギー消費量は原油換算で、前年度比6.8%減の3億7952万キロリットル。景気悪化を受け、比較できる1965年度以降最大の落ち込みとなった。温室効果ガス排出の約9割を占めるエネルギー消費による二酸化炭素(CO2)排出量も、6.7%減の11億3800万トンと急減した。しかし、京都議定書の基準年の90年度と比べると7.4%増で、「100年に1度」の経済活動低迷であっても、削減目標の達成は依然厳しいことが明らかになった。(中略)
直嶋正行経産相は同日の閣議後会見で「経済成長が落ちて排出量が減ったのは、一時的な減少だ。景気が良くなれば増える。25%減に向け、さまざまな対策強化が不可欠だ」と述べた。【山田大輔、柳原美砂子】
出典:毎日新聞
CO2排出量削減の目標は達成できるのかどうかは問題ではありません。25%減に向けてどのような方法があるのか、ということが重要です。実際、多くの企業や国民は様々なエコ活動を通して温室効果ガスの排出量削減に対する努力をしていますが、大きな効果は得られていないようです。今後も生産活動を行いながら、一方では排出物を減らすというやり方では限界が来ているのでしょう。新しい革新的な技術や方法の確立によって可能になるかもしれませんが、政府がそのような手段を用いる話を聞いたことがありません。
生活恐慌がジワジワと肌に感じるようになってきましたが、不況が続き生産活動が鈍化すれば、自然とCO2も削減されるでしょう。景気の回復など夢のまた夢という現実を知っているからこそ掲げられる目標なのです。
また、大事なことですが「生産活動」とは私達が生きていくことを意味しています。「鈍化する」ということはその反対ということです。多くの人が生きることを諦めてしまえばCO2も増え続けることありません。さらに、民主党が主導する原発の新設や増設は、「二酸化炭素を排出しないクリーンエネルギー」と謳われています。しかし、事故による放射能漏れで多くの人命が失われる可能性も同時に秘めています。
世界中にある油田は40年以上前に発掘されたものばかりです。かつての産油国であるイギリスや他の国々も石油輸入国へと変わっていきました。増え続ける世界の人口は、需要増を招く一方で供給は追いついていないのです。さらに、世界の石油の備蓄量は減少を続けています。備蓄が無くなれば世界は深刻な状況となるでしょう。
石油はエネルギーです。このエネルギーの一部を食料の生産に充て、その食料を私達は口にすることで活動エネルギーを得ているのです。ですから、石油が枯渇するということは多くの人々にとって生命にかかわることとなりうるのです。
教育の艦隊
既に気違い政府による政策で日本は2010年には6人に1人が貧困層になる。2011年には5人に一人、2012年には4人に1人が貧困層になるだろう。新しい産業が生まれず介護福祉や生活保護のような公的支出が増大するからだ。不況になれば貧困層が増大し、彼らを土台とする労役者の指導者は権力と富を独占する。労役者の指導者は貧しい人々がいなくなると権力を維持する事ができない。その為に、半永久的に貧困層が増大する政策を取り続けなければならない。歯向かう物は魔女狩りにて処分されていくだろう。この恐怖の社会に対しては、ゾンビの擬態とゾンビから隔絶した生活が重要となる。つまり、新しいテクノロジーが家族を救う唯一の道だという事である。
出典:サイバー戦記
上記文章では2012年の貧困層を25%としています。この時点でも世界の終わりの始まりにすぎません。2040年にはどうなるのでしょう。遠隔学習や教育の場では連日このような話題が持ち上がります。
このまま何もせずにいれば環境の変化とともに社会は崩壊していきます。さらに、追い打ちをかけるように混沌を喜ぶショーカーを増加させ、社会の崩壊は加速度的に進んでいくことでしょう。恐怖から逃れる為に、弱者も富者も引きこもるでしょうが、ジョーカーの手から逃れるのは至難です。前者はその命を、後者はその財を奪われるでしょう、あるいは両方かもしれません。何の行動も起こさなかったことが自分や家族の将来を奪うという事実を歴史から知るべきです。
特攻のレクイエム
太平洋戦争の末期、敗退を続ける日本軍は陸海軍あげての大規模な作戦として特攻を実施しました。爆弾を搭載した軍用機で敵艦に体当たりする攻撃ですが、乗組員の生還の見込みはゼロに等しく、この作戦の遂行は死を意味していました。敗戦濃厚な戦況下にあって乗組員は何を守ろうとしたのでしょう。敵が本土に上陸すれば、親や兄弟、そして子供が犠牲になります。それを防ぐには自らの命を盾にしたと言えるでしょう。
戦後数十年も経つと戦果は大きなものでは無かったことが分かります。上記のビデオを観てください。負けると分かっている戦争に命を投げ出した者と笑うのでしょうか、それとも今私達が生きているのは彼らのお陰だと感謝の涙が溢れるのでしょうか。
私達は彼らの未来に生きています。今後どのように私達が生きていけばいいのか分からない時もあるでしょう。その時は、彼らを見つめるように未来の視点から自分を見つめればいいのです。臆病者だったと笑われるのか、勇敢だったと涙を流してくれるのか、未来に恥じない選択をしたいものです。





















