スターリンが最後の政敵を片付けても、トロツキスト狩りが終息したわけではありませんでした。
フランスでは、小さなトロツキスト組織の活動家に対して条件反射のように、共産党活動家は、フランスあるいはドイツ警察に密告されることなど十分に考えられることでした。ヴィシーの牢獄やフランス人収容所で、トロツキストは系統的に仲間はずれにされました。
強制収容所のなかにおいてまで、共産主義者は収容所内のヒエラルヒーで獲得した地位を用いて、彼らの身近な敵対者を抹殺しようとつとめました。強制労働所の仕組みを利用して、ゲスタポやSSの犠牲者でありながら、トロツキストという政敵を最も厳しい労働班のところに送り込んで片付けようとしました。トロツキスト活動家のその他の「抹殺」は、フランス解放を利用して行われました。
ギリシアでは、トロツキスト運動は無視し難いものでした。戦争の期間、トロツキストは、1941年6月に共産主義者いよって創立された民族解放戦線(EAM)に加わり、民族解放人民軍(ELAS)の将軍、アリス・ヴェルヒテオィスは20名ばかりのトロツキストを処刑させました。解放後はトロツキスト活動家の誘拐が続発し、彼らの同志たちの住所を教えるようにしばしば拷問されたのです。1942年以降、「アルケオ・マルクシスト」と呼ばれるギリシア共産党の外部で組織されていた活動家のことだが、同じように、追放、暗殺されました。
アルバニアでは、1941年11月、アナスタル・ルーラの周囲に結集したトロツキストを含む左翼諸集団の統一ののち、政党はとのあいだで分裂が再現されました。そして1943年、ルーラは即決で処刑されたのです。
中国では、中国共産党(PCC)の創立者で元書記陳独秀(ちんどくしゅう)の権威のもと、1928年にトロツキズム運動が始まりました1935年頃数百名であったメンバーは、抗日戦争のあいだに、一部を人民解放軍の八路軍への合体に成功しました。毛沢東は彼らを処刑させ、彼らが指導していた大隊を抹殺しました。内戦後は、彼らは系統的に追放され処刑されました。彼らの多数の者の運命は今日でも知られていません。
インドシナではトロツキストと共産主義者は1933年以降共同戦線を張っていました。1937年にはジャック・デュクロの指令により、インドシナ共産党が協力継続するのを禁止しました。1945年9月、国際共産主義同盟は、ホー・チ・ミンによって設立された同年5月に設立されたベトミン(独立の為民主戦線)が英国に用意していた平和的な歓待を踏みにじりました。9月14日ベトミンはトロツキスト幹部に対し作戦を開始し、捕われた大部分は処刑されたのです。
チェコスロバキアでは、1936年カランドラがモスクワ裁判を告発するパンフレットを書いたためチェコスロバキア共産党(PCT)から除名されました。抵抗者として、かれはドイツ軍によってオラーニエンブルク収容所に移送されました。1949年11月に逮捕され「共和国に対する陰謀」を指導したことを告発されて拷問を受けました。1950年6月、彼の裁判が開始され、彼は自己批判を述べ、彼は死刑を宣告されました。カランドラの運命は、彼の仲間の運命を象徴しているでしょう。
「この1年のうちに、不可避である戦争の開始前に、トロツキーに決着をつけなければならない」と宣言し、1930年3月スターリンはスドプラートフに暗殺を委任しました。5月24日にスドプラートフの手先は、メキシコ共産党の共犯を得てトロツキーの生命を狙ったものの失敗となりました。次にスドプラートフは、ラモン・メルカデルを偽名を使って潜入させる手段を行いました。メルカデルが革命家として書いたトロツキー擁護の論文について意見を述べる為に、トロツキーと接触した時、メルカデルはピッケルを使って頭を一撃しました。そして、トロツキーは翌日、息を引き取ったのです。
諸共産党、コミンテルンの各支部、NKVDの各部局のあいだの相互浸透はレオン・トロツキーによって非難されていました。彼はコミンテルンがGPUにより、ついでNKVDにより支配されていることを良く知っていました。「GPUという組織は、ソ連の外部で確立された伝統と方法を持っている。GPUはその活動の為に、合法的ないし半合法的なカムフラージュと、その工作員の徴募のために好ましい環境を必要としている。GPUはこの環境とこの保護をいわゆる、”共産党諸党”に見出している」とメキシコ検事総長への手紙に書いていました。
トロツキーは、GPUを「スターリンの権力の主要な機関」とし、ソ連における「専制支配の道具」としている。ここに「コミンテルンの全体に広がっていき、労働運動を骨の髄まで毒する隷属とシニズムの精神」が由来しているのです。「組織としてはGPUとコミンテルンは同一ではないが、両者は分解しがたく結ばれている。両者は互いに従属しており、GPUに命令を発しているのはコミンテルンではなく、逆に、コミンテルンを完全に支配しているのはGPUなのである」と論じています。
トロツキーの暗殺は1940年8月20日、死亡は翌日8月21日でした。
ソ連に住んでいた外国人共産主義者の集団を大量に殺した後、スターリンは外国に居住している「異端分子」にとりかかりました。NKVDの実力を世界的に示すこととなったのです。
イグナス・ライス(本名ネイサン・ポレツキー)の場合、彼は若い革命的なユダヤ人であり、職業的アジテーターとして国際的な非公然組織網のなかで活躍し、その任務をみごとに遂行したことで,1928年「赤旗」勲章を授けられました。モスクワ裁判の第一報にライスは動転し、スターリンと断絶することを決心しました。
1937年7月、ソ連共産党中央委員会宛の手紙を公開し、スターリンとスターリニズムを攻撃しました。彼によれば、この二つは「全世界に害毒を流し、労働運動の残余を破滅させる恐れのある血と偽りの最悪の日和見主義の混淆であり、いわば無原則の日和見主義である」ということです。そして、同時にレオン・トロッキーへの賛同を公言しました。
NKVDはただちにライスの居場所を特定し、彼はフランス共産党員によって弾丸を浴びせられました。ライスの暗殺は広範なトロツキスト抹殺計画の一環であり、ソ連において、トロツキストが他の大勢の者とどうように殺戮されたことは驚くほどでではありませんでした。対し、驚くべきは、外国での反対派、あるいは諸国に形成されたトロツキスト・グループをも物理的に抹殺するのに、秘密機関が燃やした闘志と言えるでしょう。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
「トロツキスト」狩り
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