共産主義黒書ーアジア篇

ナチズムの犠牲者2500万人に対し、共産主義による犠牲者はソ連で約2000万人、中国で6500万人、全世界で合わせて1億人を数える。民族・人種によるジェンサイドとイデオロギーによるジェノサイドはどこが違うのか?
 
30年代のソ連には多数の外国人が生活していました。彼らは共産主義者ではなくても、ソビエトの国に対する情熱があり、それを彼らの生命をもって支払うことになにました。彼らは共産主義テロルの犠牲者だったのです。

30年代の初めソビエト人は、ソ連とフィンランドがもつ大きな可能性と「社会主義の建設」という魅力に乗じました。在米のフィンランド人5000名と、1万2000名がフィンランドを離れました。多くは米国からのフィンランド人で、フィンランド勤労者団体のメンバーであり、1929年の恐慌に続く失業という困難にぶっかっていました。

ソビエトの対米貿易商社アムトルグのエージェント達は、労働とよい給料と住まい、さらにニュヨーク=レンニグラード間の無料旅行を約束していました。さらに、住民がもっている財産を残らず持参するようにさえ勧めていました。

到着するや否や移住者の機械や道具や小遣いはすべて没収され、さらにパスポートを提出させられ、未開の地で極端に厳しい生活条件の中に取り込まれました。少なくとも20000人のフィンランド人が強制収容所に拘禁されたのです。

参考:ロシア、北方領土に対艦・対空ミサイル配備へ ヘリも
スターリンが最後の政敵を片付けても、トロツキスト狩りが終息したわけではありませんでした。

フランスでは、小さなトロツキスト組織の活動家に対して条件反射のように、共産党活動家は、フランスあるいはドイツ警察に密告されることなど十分に考えられることでした。ヴィシーの牢獄やフランス人収容所で、トロツキストは系統的に仲間はずれにされました。

強制収容所のなかにおいてまで、共産主義者は収容所内のヒエラルヒーで獲得した地位を用いて、彼らの身近な敵対者を抹殺しようとつとめました。強制労働所の仕組みを利用して、ゲスタポやSSの犠牲者でありながら、トロツキストという政敵を最も厳しい労働班のところに送り込んで片付けようとしました。トロツキスト活動家のその他の「抹殺」は、フランス解放を利用して行われました。

ギリシアでは、トロツキスト運動は無視し難いものでした。戦争の期間、トロツキストは、1941年6月に共産主義者いよって創立された民族解放戦線(EAM)に加わり、民族解放人民軍(ELAS)の将軍、アリス・ヴェルヒテオィスは20名ばかりのトロツキストを処刑させました。解放後はトロツキスト活動家の誘拐が続発し、彼らの同志たちの住所を教えるようにしばしば拷問されたのです。1942年以降、「アルケオ・マルクシスト」と呼ばれるギリシア共産党の外部で組織されていた活動家のことだが、同じように、追放、暗殺されました。

アルバニアでは、1941年11月、アナスタル・ルーラの周囲に結集したトロツキストを含む左翼諸集団の統一ののち、政党はとのあいだで分裂が再現されました。そして1943年、ルーラは即決で処刑されたのです。

中国では、中国共産党(PCC)の創立者で元書記陳独秀(ちんどくしゅう)の権威のもと、1928年にトロツキズム運動が始まりました1935年頃数百名であったメンバーは、抗日戦争のあいだに、一部を人民解放軍の八路軍への合体に成功しました。毛沢東は彼らを処刑させ、彼らが指導していた大隊を抹殺しました。内戦後は、彼らは系統的に追放され処刑されました。彼らの多数の者の運命は今日でも知られていません。

インドシナではトロツキストと共産主義者は1933年以降共同戦線を張っていました。1937年にはジャック・デュクロの指令により、インドシナ共産党が協力継続するのを禁止しました。1945年9月、国際共産主義同盟は、ホー・チ・ミンによって設立された同年5月に設立されたベトミン(独立の為民主戦線)が英国に用意していた平和的な歓待を踏みにじりました。9月14日ベトミンはトロツキスト幹部に対し作戦を開始し、捕われた大部分は処刑されたのです。

チェコスロバキアでは、1936年カランドラがモスクワ裁判を告発するパンフレットを書いたためチェコスロバキア共産党(PCT)から除名されました。抵抗者として、かれはドイツ軍によってオラーニエンブルク収容所に移送されました。1949年11月に逮捕され「共和国に対する陰謀」を指導したことを告発されて拷問を受けました。1950年6月、彼の裁判が開始され、彼は自己批判を述べ、彼は死刑を宣告されました。カランドラの運命は、彼の仲間の運命を象徴しているでしょう。


「この1年のうちに、不可避である戦争の開始前に、トロツキーに決着をつけなければならない」と宣言し、1930年3月スターリンはスドプラートフに暗殺を委任しました。5月24日にスドプラートフの手先は、メキシコ共産党の共犯を得てトロツキーの生命を狙ったものの失敗となりました。次にスドプラートフは、ラモン・メルカデルを偽名を使って潜入させる手段を行いました。メルカデルが革命家として書いたトロツキー擁護の論文について意見を述べる為に、トロツキーと接触した時、メルカデルはピッケルを使って頭を一撃しました。そして、トロツキーは翌日、息を引き取ったのです。

諸共産党、コミンテルンの各支部、NKVDの各部局のあいだの相互浸透はレオン・トロツキーによって非難されていました。彼はコミンテルンがGPUにより、ついでNKVDにより支配されていることを良く知っていました。「GPUという組織は、ソ連の外部で確立された伝統と方法を持っている。GPUはその活動の為に、合法的ないし半合法的なカムフラージュと、その工作員の徴募のために好ましい環境を必要としている。GPUはこの環境とこの保護をいわゆる、”共産党諸党”に見出している」とメキシコ検事総長への手紙に書いていました。

トロツキーは、GPUを「スターリンの権力の主要な機関」とし、ソ連における「専制支配の道具」としている。ここに「コミンテルンの全体に広がっていき、労働運動を骨の髄まで毒する隷属とシニズムの精神」が由来しているのです。「組織としてはGPUとコミンテルンは同一ではないが、両者は分解しがたく結ばれている。両者は互いに従属しており、GPUに命令を発しているのはコミンテルンではなく、逆に、コミンテルンを完全に支配しているのはGPUなのである」と論じています。

トロツキーの暗殺は1940年8月20日、死亡は翌日8月21日でした。
ソ連に住んでいた外国人共産主義者の集団を大量に殺した後、スターリンは外国に居住している「異端分子」にとりかかりました。NKVDの実力を世界的に示すこととなったのです。

イグナス・ライス(本名ネイサン・ポレツキー)の場合、彼は若い革命的なユダヤ人であり、職業的アジテーターとして国際的な非公然組織網のなかで活躍し、その任務をみごとに遂行したことで,1928年「赤旗」勲章を授けられました。モスクワ裁判の第一報にライスは動転し、スターリンと断絶することを決心しました。

1937年7月、ソ連共産党中央委員会宛の手紙を公開し、スターリンとスターリニズムを攻撃しました。彼によれば、この二つは「全世界に害毒を流し、労働運動の残余を破滅させる恐れのある血と偽りの最悪の日和見主義の混淆であり、いわば無原則の日和見主義である」ということです。そして、同時にレオン・トロッキーへの賛同を公言しました。

NKVDはただちにライスの居場所を特定し、彼はフランス共産党員によって弾丸を浴びせられました。ライスの暗殺は広範なトロツキスト抹殺計画の一環であり、ソ連において、トロツキストが他の大勢の者とどうように殺戮されたことは驚くほどでではありませんでした。対し、驚くべきは、外国での反対派、あるいは諸国に形成されたトロツキスト・グループをも物理的に抹殺するのに、秘密機関が燃やした闘志と言えるでしょう。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
「トロツキスト」狩り

ユーゴスラヴィアもまたスターリンのテロルの為に苦しみました。1921年、ユーゴスラヴィア党は禁止され、1921年から1936年まではウィーンに、1936年から1939年まではパリに撤退せざるをえませんでした。

1925年の後、主要なセンターを組織したのはモスクワにおいてでした。西方少数民族共産主義大学や国際レーニン学校の生徒達の周囲に、ユーゴスラヴィアからの移住者の核が形成され、やがて、1929年のアルクサンダル国王の独裁樹立のともなう新しい移住者によって強化されたのです。30年代には2〜300名のユーゴスラヴィア共産主義者がソ連に居住し、コミンテルンや共産主義青年インターナショナルにおいて活発でした。こうして、彼らはソ連共産党に結びついていたのです。

しかし、彼らはユーゴスラヴィア共産党の指導権を争う多くの戦いの為に悪い評判をえており、そうした状況により、コミンテルン指導部の介入は高速的なものとなっていったのです。1925年、最初のチストカ(点検粛清運動)が西方少数民族大学で行われ、数人の学生は排除され、逮捕やシベリアに追放されました。1932年にはあらたな粛清がおこなわれ、16名の活動家が除名されたのです。

キーロフの暗殺の後、政治的移住者に対する統制は強化されました。1936年秋には、テロルが彼らを襲う前に、ユーゴスラヴィア共産党のすべての活動家が点検に付されたのです。政治的移住者の運命は、強制労働を宣告され獄中で死ぬ者や、即座に処刑される者もいました。1938年におけるチトーの党のトップへの上昇は粛清の結果であり、彼が1948年にスターリンにたいして反抗した事実も、彼自身の30年代の粛清の責任を免除するものではないのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ユーゴスラヴィア共産党

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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ポーランド共産主義者は、テロルの猛威に最もさらされた集団の一つでした。弾圧の統計によれば、ロシア人に次ぐ第二位となります。1938年8月16日に、ポーランド共産党(KPP)がコミンテルン執行委員会の緊急投票の結果、公式に解散されました。スターリンは、ポーランド共産党が毒されていると見なしており、常に疑いを抱いていたのです。理由は1917年以前、ポーランドの共産主義指導者達はレーニンの取り巻きに属していたこと、法的保護なしにソ連に生活していたからでした。1923年にポーランド共産党はトロツキーに見方する立場をとり、さらに、レーニンの死去の直前、ポーランド共産党の指導部は反対派に有利な決議を採択していたことも挙げられます。1924年、コミンテルン第5回大会の際、スターリンはポーランド共産党の歴史的指導部を退けたことが、コミンテルンによる統制強化の始まりとなったのです。そして、ポーランド共産党はトロキズムの巣窟と非難されました。

しかし、それだけで多数の指導者がユダヤ系であるこの党を襲った粛正を説明することはできません。つまり、コミンテルンの政策は、ソ連とドイツとに有利になるように立案され、全体としてポーランド国家の弱体へ向けた行動をポーランド支部に押し付ける傾向があったのです。ポーランド共産党の抹殺が独ソ条約調印を準備する必要性に動機づけられていたという仮説は考慮されるべきなのです。スターリンはコミンテルン機関の援助のもとに、犠牲者をモスクワに戻らせるようにして、いかなる情報も犠牲者から漏れることがないように心を配ったのでした。スターリンが自分の思い通りになる将来の政府の中核を作り上げるために、ポーランド共産党を再建する必要を思い立ったのは、1942年になってからのことだったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ポーランド共産党

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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「三人がこの橋を渡るのを拒否した。すなわち、ブロッホという名のハンガリー系ユダヤ人と、ナチに有罪判決を受けた共産主義者の労働者と、名前は忘れたが、ドイツ人教師だった。ナチとSS(ナチの親衛隊員)の怒りはただちにユダヤ人にたいして行使された。われわれは列車に乗り換えさせられ、ルブリンに連れて行かれた。(・・・)ルブリンで、われわれはゲスタポに引き渡された。その時である、ただわれわれだけがゲスタポにひきわたされたのではなく、NKVDがわれわれにかんする書類をもSSに渡したことを確認したのは。こうして、たとえば、私の書類には、さらに、私がノイマンの妻であり、ノイマンはドイツのナチから最も憎まれているドイツ人の一人だ・・・と書かれていたわけである」<マルガレーテ・ブーハー=ノイマン「レ・レットル・フランセーズ」にたいするクラフシェンコの裁判での証言、第14回公判、1949年2月23日の速記録より>

ドイツ人共産主義者と同時にテロルに捕らえられた者として、多くがポーランドから移住したパレスチナ共産党(PCP)の幹部がいました。多くの活動家は逮捕、処刑され、あるいは収容所の中で姿を消しました。パレスチナ共産党メンバーや、ソ連に来た社会主義者=シオニスト・グループを絶滅させようとした系統的政策は、ユダヤ人の自治州であるビロビジャンの創設とともに続けられたユダヤ人少数民族にたいするソビエト政策と関連づけて考えられるべきです。なぜなら、自治州の責任者はすべて告発を受けたからです。ビロビジャン行政委員会議長のヨーシフ・リベルベルク教授は「人民の敵」として弾劾され、サムイル・アウグルスキーはユダヤ=ファシスト・センターに属しているとして告発されたのです。ボリシェヴィキ党のユダヤ人支部全体が解体されました。狙われていた目標は、ソビエト国家が同時に、ソ連外でのユダヤ人士の支援を得ようとしながら、ユダヤ人諸制度の破壊だったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ブレスト-リトウスクの橋のうえで

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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最も悲劇的なエピソードは、ファシズムn反対するドイツ人をヒトラーに引き渡したことでした。1937年以降、ソビエト当局はドイツ国民を追放することを決定しました。2月26日10名がOSO(オソ・特別会議。国家保安諸機関の欠席行政裁判を指す)によって追放の判決を受けました。技術者、技師、コミュニスト、あるいはマルクス−エンゲルス研究所に雇われていた大学人でした。彼らは1936年の間にスパイ行為ないし「ファシスト的活動」のかどで逮捕されたのです。

1937年5月の終わりにフォン・シューレンブルクは、逮捕されているドイツ人で、強制退去措置を希望する新しいリストをソ連側に伝達しました。その中には多数の反ファシストがいました。1937年秋になると、ソビエト側はドイツ人官史が求めるとおり、追放措置を加速することを承諾しましたのです。

ナチ・ドイツとソビエト・ロシアのあいだのすばらしい友好関係は、1939年のソビエト・ナチ条約を先取りするものでした。この条約の署名後、追放ははるかにドラマティックな状況下で継続しました。ヒトラーとスターリンによるポーランドの粉砕ののち、2つの強国は共通の国境をもったことで、ソビエトの牢獄からの被追放者を直接ドイツの牢獄へ移らせることができるようになりました。1939年〜1941年にかけてドイツにたいするソビエトの善意を示す為に、200〜300名のドイツ人共産主義者がゲスタポに引き渡されたのでした。1939年11月27日、両当事者間で新しい協定が署名され、85名のオーストリア人を含む約350名が追放されました。オーストリア人の中にはオーストリア共産党創立者の一人で赤色労働組合インターナショナルの要員になったフランツ・コリチョーナーがいましたが、彼は北極圏に移送されたのちゲスタポに手渡され、ウィーンに移され、拷問されて、1941年6月7日アウシュヴィッツで処刑されました。

ソビエト当局はこれら多数の被追放者がユダヤ人の生まれであることをいささかも考慮しませんでした。ユダヤ人の作曲家で指揮者のハンス・ヴァルターはドイツ共産党のメンバーでしたが、ゲスタポに手渡された後1942年にマイダネック収容所でガス殺されました。同様なケースはほかにも多く存在したのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ドイツ人活動家のナチへの引き渡し

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道

スターリンはコミンテルンの中央機関を「整理」したのち、共産主義インターナショナルのそれぞれの支部に襲いかかったのです。最初はドイツ支部でした。ソビエト・ロシアにおけるドイツ人コミュニティはドイツ共産党(KPD)の活動家、亡命してきた反ファシスト、「社会主義建設」に参加するためワイマール共和国を離れた労働者が多数を占めていましたが、1933年以降に逮捕がはじまった時には、それらの長所も彼らの身分を守るもものとはならなかったのです。ソ連に亡命したドイツ人反ファシストの3分の2は弾圧の手に落ちたのでした。

共産主義活動家にかんしていえば、「カーデルリステン(幹部名簿)」という複数のリストので知られています。これらはドイツ共産党支部の指導者ヴィルヘルム・ピーク、ヴィルヘルム・フローリン、ヘルベルト・ヴェーナーの責任のもとで作成されましたが、彼らは処分をうけた共産主義者や弾圧の犠牲者を排除するために、このリストを利用したのでした。最初のリストは1936年9月3日付けであり、最後は1938年6月21日付けえした。50年代の終わりを持つもう一つの記録はSEDの統制委員会によって確定されたもので、1136名を数えたものでした。

逮捕は1937年に頂点を迎え、1941年まで続きました。半数の運命は不明ですが、拘禁中に死んだと推定されます。反し、確信を持って知りうるのは、82名が処刑され、197名が獄中や収容所で死んだこと、132名はナチに引き渡されたことです。別の150名は重い懲罰を受けながらも生延びることができ、刑が満期になった時にソ連を離れることができました。これら活動家の逮捕を正当化するために援用されたイデオロギー的理由の一つは、かれらがヒトラーを失敗させることに成功しなかったという点でした。まるで、ナチの権力獲得にかんしてモスクワに重大な責任がなかったかのようです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道

共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道

処刑されたコミンテルン要員の多くは「ピャトニツキー、クノーリンとクーン・ベラによって指導された反コミンテルン組織」に属する者と非難されました。また、単にトロツキストや反革命家とみなされた者もいたのです。

クーン・ベラはハンガリー・コミューンの元リーダーであり、1937年に、おそらくスターリンの指示を受けたであろうマヌイリスキーと対立し、非難されていました。マヌイリスキーはクーンがスターリンを批判しているとし、クーンはコミンテルンが有効でない現状の根本原因であると考えた、ソ連共産党の間違った代表制の責任者として、マヌイリスキーとモスクヴィーンを指名したのでした。出席者のうちクーンを弁護する者はおらず、会合の終わりにゲオルギ・ディミトロフは「クーン問題」が特別委員会で審査されるであろうとの決議案を採択させたのです。しかし、クーン・ベラは特別委員会のかわりに会場から出た直後逮捕されてしまいました。そして彼は日付不明の日にルビャンカ(モスクワの中心にある国家保安機関の建物)の地下室で処刑されたのでした。

パンテレーエフ氏によれば、これらの粛正の最終目標はスターリンの独裁へのいっさいの反対派を根絶することであり、過去において、反対派のシンパだった者や、以前トロツキーに近い活動家と関係を持ったの者は「弾圧」が好んで狙った目標でした。ハインツ・ノイマンによって指導されていたドイツ人活動家についても、民主集中派のグループの元活動家につても同様だったのです。当時、GUGB(国家保安総管理局)-NVDの秘密政治部局の第一部門の次長だったヤコブ・マツーソフの証言によると、国家機関において高い地位を占める指導者一人一人は、知らない間に自分に対して使用される書類を集めた文書の対象となっていたようです。同じようにコミンテルンの指導者たちも同じ疑惑のもとに置かれていたのでした。

コミンテルンの非ロシア人の高位責任者たちが積極的に弾圧に加わっていた点も挙げなければなりません。例えば,イタリア人パルミロ・トリアッチはコミンテルンの書記の一人であり、スターリンの死後、テロル的方法に反対した人間としてもてはやされました。しかし、国際赤色救護会の職員、ヘルマン・シューベルトを非難し、会合の席上、彼が弁解しようとするのを阻止したのです。シューベルトは直後に逮捕され、銃殺されました。また、ドイツ人共産党主義者のペーテルマン夫妻は、トリアッチから「ヒトラーの手先」と非難され、彼らは数週間後に逮捕されたのでした。さらにクーン・ベラをめぐる血みどろの争いの際にも出席しており、クーンを死に送る決議に署名したのです。さらにまた、1938年のポーランド共産党の粛正にも密接にかかわっていたのです。トリアッチはモスクワ裁判の第三回裁判の結果を承認し、次のように結びました。「戦争扇動者に死を、スパイに死を、ファシズムに死を!十月革命の成果の注意深い擁護者、世界革命の勝利の確実な保証人である、レーニンとスターリンの党万歳!フェリクス・ジェルジンスキーの業績をつぐ者、ニコライ・エジョフ万歳!」

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンを襲った大テロル
粛正の最終目標

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道