ユーゴスラヴィア共産党

ユーゴスラヴィアもまたスターリンのテロルの為に苦しみました。1921年、ユーゴスラヴィア党は禁止され、1921年から1936年まではウィーンに、1936年から1939年まではパリに撤退せざるをえませんでした。

1925年の後、主要なセンターを組織したのはモスクワにおいてでした。西方少数民族共産主義大学や国際レーニン学校の生徒達の周囲に、ユーゴスラヴィアからの移住者の核が形成され、やがて、1929年のアルクサンダル国王の独裁樹立のともなう新しい移住者によって強化されたのです。30年代には2〜300名のユーゴスラヴィア共産主義者がソ連に居住し、コミンテルンや共産主義青年インターナショナルにおいて活発でした。こうして、彼らはソ連共産党に結びついていたのです。

しかし、彼らはユーゴスラヴィア共産党の指導権を争う多くの戦いの為に悪い評判をえており、そうした状況により、コミンテルン指導部の介入は高速的なものとなっていったのです。1925年、最初のチストカ(点検粛清運動)が西方少数民族大学で行われ、数人の学生は排除され、逮捕やシベリアに追放されました。1932年にはあらたな粛清がおこなわれ、16名の活動家が除名されたのです。

キーロフの暗殺の後、政治的移住者に対する統制は強化されました。1936年秋には、テロルが彼らを襲う前に、ユーゴスラヴィア共産党のすべての活動家が点検に付されたのです。政治的移住者の運命は、強制労働を宣告され獄中で死ぬ者や、即座に処刑される者もいました。1938年におけるチトーの党のトップへの上昇は粛清の結果であり、彼が1948年にスターリンにたいして反抗した事実も、彼自身の30年代の粛清の責任を免除するものではないのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ユーゴスラヴィア共産党

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道

EVバイクはこちら Special Thanks to 生命保険見直し

人気ブログランキングへ

関連記事

コメントの投稿

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://a-meet.net/mt/mt-tb.cgi/533