ポーランド共産党
ポーランド共産主義者は、テロルの猛威に最もさらされた集団の一つでした。弾圧の統計によれば、ロシア人に次ぐ第二位となります。1938年8月16日に、ポーランド共産党(KPP)がコミンテルン執行委員会の緊急投票の結果、公式に解散されました。スターリンは、ポーランド共産党が毒されていると見なしており、常に疑いを抱いていたのです。理由は1917年以前、ポーランドの共産主義指導者達はレーニンの取り巻きに属していたこと、法的保護なしにソ連に生活していたからでした。1923年にポーランド共産党はトロツキーに見方する立場をとり、さらに、レーニンの死去の直前、ポーランド共産党の指導部は反対派に有利な決議を採択していたことも挙げられます。1924年、コミンテルン第5回大会の際、スターリンはポーランド共産党の歴史的指導部を退けたことが、コミンテルンによる統制強化の始まりとなったのです。そして、ポーランド共産党はトロキズムの巣窟と非難されました。
しかし、それだけで多数の指導者がユダヤ系であるこの党を襲った粛正を説明することはできません。つまり、コミンテルンの政策は、ソ連とドイツとに有利になるように立案され、全体としてポーランド国家の弱体へ向けた行動をポーランド支部に押し付ける傾向があったのです。ポーランド共産党の抹殺が独ソ条約調印を準備する必要性に動機づけられていたという仮説は考慮されるべきなのです。スターリンはコミンテルン機関の援助のもとに、犠牲者をモスクワに戻らせるようにして、いかなる情報も犠牲者から漏れることがないように心を配ったのでした。スターリンが自分の思い通りになる将来の政府の中核を作り上げるために、ポーランド共産党を再建する必要を思い立ったのは、1942年になってからのことだったのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ポーランド共産党
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道
2010年2月10日 00:00 | カテゴリー: ALL 共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇

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