コミンテルンを襲った大テロル

1943年12月のキーロフ暗殺を口実に、スターリンやロシア党、コミンテルンは厳しい弾圧を本物のテロルへと移行しました。そしてソ連共産党とコミンテルンの歴史は新たな段階に入ったのです。それまで社会に向けられていたテロルは、ソ連共産党とその全能の書記長がが行使していた独占的権力の当事者達に向けられることになったのでした。

最初の犠牲者は、すでに投獄されたいたロシア反対派のメンバーでした。1936年10月ヴォルクタ地区に集められたトロツキストは一般刑事犯との分離、家族と共に生活する権利を要求してハンストを開始しましたが、4週間後に最初の死亡者がでました。次の秋、1200名の拘禁者が集められ3月の終わりに囚人リストにあげられた25名は、1キロのパンと出発の用意を整える命令を受けた後、銃殺されました。護衛隊は死体にガソリンをかけて焼き、跡形も無い状態にしたのです。女性も容赦されませんでした。処刑された活動家の妻は自動的に死刑に処せられ、12歳を超える反対派の子供たちも同じ扱いを受けました。

スペイン戦争が始まると作戦は新たな展開を見せました。スターリンがヒトラーとの接近を図っていたのに、トロキズムとナチズムを一体化させる作戦に変わったのです。やがて、スターリンが発動した大テロルはコミンテルンの中央機関に達しました。ボリス・スーヴァリヌは、大粛正の犠牲となったコミンテルンのつつましい協力者についての文章を書き「”犠牲者名簿”へのコメンタール」を完成させました。そこには「コミンテルンの殺戮に倒れた人々のほとんどは、プロレタリアのレッテルを掲げる忌まわしい専制により、めったやたらに葬り去られた無数の抹殺の、数百万の勤勉な労働者・農民の殺戮のほんの一部に過ぎない者として消え去ったのである」と書かれていたのです。

1937〜1938年の大粛正のときに弾圧機関の犠牲者になったのは、ただ単に反対派だけでなく、コミンテルン機関と付属機関の職員もまた犠牲となったのでした。たとえば、当時公報・プロパガンダ局の責任者だったアントーニ・クライェフスキは1937年5月26日に投獄されました。外国での任務から帰るやいなや逮捕された者も多かったのです。事務局から共産諸党の代表部まで、あらゆる部局が難を受けました。家族の連帯責任制の原理はすでに一般市民にたいして適用されていましたが、機関のメンバーにまで広げられたのでした。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンを襲った大テロル


ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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