2010年2月
終戦直前の日本を襲った悲劇として原子爆弾の投下が挙げられます。その新型爆弾の投下候補地の一つに新潟もありましたが、原子爆弾の投下を免れたのは原爆疎開によってでした。原子爆弾が投下される数日前に情報を把握していた関係者が市民を疎開させたのです。これにより原爆による被害の状況を(実験データ)を得ようとしたアメリカ側は目標値を他へ変更したのでした。
情報を知りながら国は新潟市民の疎開に積極的ではありませんでした。同様に終戦間近の満州においても、ソ連軍進攻の情報を得ていた者は我先にと逃走し、残された多くの人が殺戮やシベリア抑留という悲惨な現実を背負いました。
チリで地震が発生しました。この記事が掲載される頃には地震による津波が日本にも到達しているかと思います(ちょっと早いかな)。1メートル程度の津波が予想されていますが、人を海中に引きずり込むのには十分な高さです。警戒を怠ってはなりません。1960年に起こった同地域の地震ではマグニチュードが9.5で、三陸地方を中心に140人の死者や行方不明の被害が発生しています。太平洋を挟んだ遠い国と考えて油断することが大きな災いとなるのです。
関連:沖縄とチリで地震発生
空襲を免れていると考えていたら原爆投下でした。地震による被害がないと考えるのなら原発震災(もちろん地震によるものですが)による放射能汚染を考慮すべきでしょう。最近、深海に生息するリュウグウノツカイが度々海辺に打ち上げられていますが、海の底の環境が変化してきているのではないでしょうか。水質の変化なのか、地震の前兆なのか、さまざな憶測がありますが大切な事は、それらの現象から知るべきことがあるということです。様々な悲惨な状況をや人類の過去を知りながら、自分と無関係と思うのは希望的観測です。
関連:ナゾの深海魚、日本海沿岸に続々漂着
中国では「国防動員法」が成立しました。着々と有事の際に備えた手を打っているように思えます。人民の支持を得る為にアメとムチは使い分けられますが、最初に使われるのは「アメ」のほうです。日本政府は国民に支持され権力を得たいがための対応が多いです。しかし、恐怖を行使される(誰が誰にどのような)のも時間の問題でしょう。情報を知り、どう行動するのか。
3月14日に佐賀イベントが開催されます。Never Say Die!の管理人さんも参加されますので是非参加してください。
2010年2月28日 06:00
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原発
災害
社会
ユーゴスラヴィアもまたスターリンのテロルの為に苦しみました。1921年、ユーゴスラヴィア党は禁止され、1921年から1936年まではウィーンに、1936年から1939年まではパリに撤退せざるをえませんでした。
1925年の後、主要なセンターを組織したのはモスクワにおいてでした。西方少数民族共産主義大学や国際レーニン学校の生徒達の周囲に、ユーゴスラヴィアからの移住者の核が形成され、やがて、1929年のアルクサンダル国王の独裁樹立のともなう新しい移住者によって強化されたのです。30年代には2〜300名のユーゴスラヴィア共産主義者がソ連に居住し、コミンテルンや共産主義青年インターナショナルにおいて活発でした。こうして、彼らはソ連共産党に結びついていたのです。
しかし、彼らはユーゴスラヴィア共産党の指導権を争う多くの戦いの為に悪い評判をえており、そうした状況により、コミンテルン指導部の介入は高速的なものとなっていったのです。1925年、最初のチストカ(点検粛清運動)が西方少数民族大学で行われ、数人の学生は排除され、逮捕やシベリアに追放されました。1932年にはあらたな粛清がおこなわれ、16名の活動家が除名されたのです。
キーロフの暗殺の後、政治的移住者に対する統制は強化されました。1936年秋には、テロルが彼らを襲う前に、ユーゴスラヴィア共産党のすべての活動家が点検に付されたのです。政治的移住者の運命は、強制労働を宣告され獄中で死ぬ者や、即座に処刑される者もいました。1938年におけるチトーの党のトップへの上昇は粛清の結果であり、彼が1948年にスターリンにたいして反抗した事実も、彼自身の30年代の粛清の責任を免除するものではないのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ユーゴスラヴィア共産党
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道
2010年2月11日 00:00
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共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇
ポーランド共産主義者は、テロルの猛威に最もさらされた集団の一つでした。弾圧の統計によれば、ロシア人に次ぐ第二位となります。1938年8月16日に、ポーランド共産党(KPP)がコミンテルン執行委員会の緊急投票の結果、公式に解散されました。スターリンは、ポーランド共産党が毒されていると見なしており、常に疑いを抱いていたのです。理由は1917年以前、ポーランドの共産主義指導者達はレーニンの取り巻きに属していたこと、法的保護なしにソ連に生活していたからでした。1923年にポーランド共産党はトロツキーに見方する立場をとり、さらに、レーニンの死去の直前、ポーランド共産党の指導部は反対派に有利な決議を採択していたことも挙げられます。1924年、コミンテルン第5回大会の際、スターリンはポーランド共産党の歴史的指導部を退けたことが、コミンテルンによる統制強化の始まりとなったのです。そして、ポーランド共産党はトロキズムの巣窟と非難されました。
しかし、それだけで多数の指導者がユダヤ系であるこの党を襲った粛正を説明することはできません。つまり、コミンテルンの政策は、ソ連とドイツとに有利になるように立案され、全体としてポーランド国家の弱体へ向けた行動をポーランド支部に押し付ける傾向があったのです。ポーランド共産党の抹殺が独ソ条約調印を準備する必要性に動機づけられていたという仮説は考慮されるべきなのです。スターリンはコミンテルン機関の援助のもとに、犠牲者をモスクワに戻らせるようにして、いかなる情報も犠牲者から漏れることがないように心を配ったのでした。スターリンが自分の思い通りになる将来の政府の中核を作り上げるために、ポーランド共産党を再建する必要を思い立ったのは、1942年になってからのことだったのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ポーランド共産党
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道
2010年2月10日 00:00
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共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇
「三人がこの橋を渡るのを拒否した。すなわち、ブロッホという名のハンガリー系ユダヤ人と、ナチに有罪判決を受けた共産主義者の労働者と、名前は忘れたが、ドイツ人教師だった。ナチとSS(ナチの親衛隊員)の怒りはただちにユダヤ人にたいして行使された。われわれは列車に乗り換えさせられ、ルブリンに連れて行かれた。(・・・)ルブリンで、われわれはゲスタポに引き渡された。その時である、ただわれわれだけがゲスタポにひきわたされたのではなく、NKVDがわれわれにかんする書類をもSSに渡したことを確認したのは。こうして、たとえば、私の書類には、さらに、私がノイマンの妻であり、ノイマンはドイツのナチから最も憎まれているドイツ人の一人だ・・・と書かれていたわけである」<マルガレーテ・ブーハー=ノイマン「レ・レットル・フランセーズ」にたいするクラフシェンコの裁判での証言、第14回公判、1949年2月23日の速記録より>
ドイツ人共産主義者と同時にテロルに捕らえられた者として、多くがポーランドから移住したパレスチナ共産党(PCP)の幹部がいました。多くの活動家は逮捕、処刑され、あるいは収容所の中で姿を消しました。パレスチナ共産党メンバーや、ソ連に来た社会主義者=シオニスト・グループを絶滅させようとした系統的政策は、ユダヤ人の自治州であるビロビジャンの創設とともに続けられたユダヤ人少数民族にたいするソビエト政策と関連づけて考えられるべきです。なぜなら、自治州の責任者はすべて告発を受けたからです。ビロビジャン行政委員会議長のヨーシフ・リベルベルク教授は「人民の敵」として弾劾され、サムイル・アウグルスキーはユダヤ=ファシスト・センターに属しているとして告発されたのです。ボリシェヴィキ党のユダヤ人支部全体が解体されました。狙われていた目標は、ソビエト国家が同時に、ソ連外でのユダヤ人士の支援を得ようとしながら、ユダヤ人諸制度の破壊だったのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ブレスト-リトウスクの橋のうえで
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道
2010年2月 9日 00:00
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共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇
最も悲劇的なエピソードは、ファシズムn反対するドイツ人をヒトラーに引き渡したことでした。1937年以降、ソビエト当局はドイツ国民を追放することを決定しました。2月26日10名がOSO(オソ・特別会議。国家保安諸機関の欠席行政裁判を指す)によって追放の判決を受けました。技術者、技師、コミュニスト、あるいはマルクス−エンゲルス研究所に雇われていた大学人でした。彼らは1936年の間にスパイ行為ないし「ファシスト的活動」のかどで逮捕されたのです。
1937年5月の終わりにフォン・シューレンブルクは、逮捕されているドイツ人で、強制退去措置を希望する新しいリストをソ連側に伝達しました。その中には多数の反ファシストがいました。1937年秋になると、ソビエト側はドイツ人官史が求めるとおり、追放措置を加速することを承諾しましたのです。
ナチ・ドイツとソビエト・ロシアのあいだのすばらしい友好関係は、1939年のソビエト・ナチ条約を先取りするものでした。この条約の署名後、追放ははるかにドラマティックな状況下で継続しました。ヒトラーとスターリンによるポーランドの粉砕ののち、2つの強国は共通の国境をもったことで、ソビエトの牢獄からの被追放者を直接ドイツの牢獄へ移らせることができるようになりました。1939年〜1941年にかけてドイツにたいするソビエトの善意を示す為に、200〜300名のドイツ人共産主義者がゲスタポに引き渡されたのでした。1939年11月27日、両当事者間で新しい協定が署名され、85名のオーストリア人を含む約350名が追放されました。オーストリア人の中にはオーストリア共産党創立者の一人で赤色労働組合インターナショナルの要員になったフランツ・コリチョーナーがいましたが、彼は北極圏に移送されたのちゲスタポに手渡され、ウィーンに移され、拷問されて、1941年6月7日アウシュヴィッツで処刑されました。
ソビエト当局はこれら多数の被追放者がユダヤ人の生まれであることをいささかも考慮しませんでした。ユダヤ人の作曲家で指揮者のハンス・ヴァルターはドイツ共産党のメンバーでしたが、ゲスタポに手渡された後1942年にマイダネック収容所でガス殺されました。同様なケースはほかにも多く存在したのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ドイツ人活動家のナチへの引き渡し
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道
2010年2月 8日 00:00
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共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇
スターリンはコミンテルンの中央機関を「整理」したのち、共産主義インターナショナルのそれぞれの支部に襲いかかったのです。最初はドイツ支部でした。ソビエト・ロシアにおけるドイツ人コミュニティはドイツ共産党(KPD)の活動家、亡命してきた反ファシスト、「社会主義建設」に参加するためワイマール共和国を離れた労働者が多数を占めていましたが、1933年以降に逮捕がはじまった時には、それらの長所も彼らの身分を守るもものとはならなかったのです。ソ連に亡命したドイツ人反ファシストの3分の2は弾圧の手に落ちたのでした。
共産主義活動家にかんしていえば、「カーデルリステン(幹部名簿)」という複数のリストので知られています。これらはドイツ共産党支部の指導者ヴィルヘルム・ピーク、ヴィルヘルム・フローリン、ヘルベルト・ヴェーナーの責任のもとで作成されましたが、彼らは処分をうけた共産主義者や弾圧の犠牲者を排除するために、このリストを利用したのでした。最初のリストは1936年9月3日付けであり、最後は1938年6月21日付けえした。50年代の終わりを持つもう一つの記録はSEDの統制委員会によって確定されたもので、1136名を数えたものでした。
逮捕は1937年に頂点を迎え、1941年まで続きました。半数の運命は不明ですが、拘禁中に死んだと推定されます。反し、確信を持って知りうるのは、82名が処刑され、197名が獄中や収容所で死んだこと、132名はナチに引き渡されたことです。別の150名は重い懲罰を受けながらも生延びることができ、刑が満期になった時にソ連を離れることができました。これら活動家の逮捕を正当化するために援用されたイデオロギー的理由の一つは、かれらがヒトラーを失敗させることに成功しなかったという点でした。まるで、ナチの権力獲得にかんしてモスクワに重大な責任がなかったかのようです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
共産党内部のテロル
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道
2010年2月 7日 00:00
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共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇
処刑されたコミンテルン要員の多くは「ピャトニツキー、クノーリンとクーン・ベラによって指導された反コミンテルン組織」に属する者と非難されました。また、単にトロツキストや反革命家とみなされた者もいたのです。
クーン・ベラはハンガリー・コミューンの元リーダーであり、1937年に、おそらくスターリンの指示を受けたであろうマヌイリスキーと対立し、非難されていました。マヌイリスキーはクーンがスターリンを批判しているとし、クーンはコミンテルンが有効でない現状の根本原因であると考えた、ソ連共産党の間違った代表制の責任者として、マヌイリスキーとモスクヴィーンを指名したのでした。出席者のうちクーンを弁護する者はおらず、会合の終わりにゲオルギ・ディミトロフは「クーン問題」が特別委員会で審査されるであろうとの決議案を採択させたのです。しかし、クーン・ベラは特別委員会のかわりに会場から出た直後逮捕されてしまいました。そして彼は日付不明の日にルビャンカ(モスクワの中心にある国家保安機関の建物)の地下室で処刑されたのでした。
パンテレーエフ氏によれば、これらの粛正の最終目標はスターリンの独裁へのいっさいの反対派を根絶することであり、過去において、反対派のシンパだった者や、以前トロツキーに近い活動家と関係を持ったの者は「弾圧」が好んで狙った目標でした。ハインツ・ノイマンによって指導されていたドイツ人活動家についても、民主集中派のグループの元活動家につても同様だったのです。当時、GUGB(国家保安総管理局)-NVDの秘密政治部局の第一部門の次長だったヤコブ・マツーソフの証言によると、国家機関において高い地位を占める指導者一人一人は、知らない間に自分に対して使用される書類を集めた文書の対象となっていたようです。同じようにコミンテルンの指導者たちも同じ疑惑のもとに置かれていたのでした。
コミンテルンの非ロシア人の高位責任者たちが積極的に弾圧に加わっていた点も挙げなければなりません。例えば,イタリア人パルミロ・トリアッチはコミンテルンの書記の一人であり、スターリンの死後、テロル的方法に反対した人間としてもてはやされました。しかし、国際赤色救護会の職員、ヘルマン・シューベルトを非難し、会合の席上、彼が弁解しようとするのを阻止したのです。シューベルトは直後に逮捕され、銃殺されました。また、ドイツ人共産党主義者のペーテルマン夫妻は、トリアッチから「ヒトラーの手先」と非難され、彼らは数週間後に逮捕されたのでした。さらにクーン・ベラをめぐる血みどろの争いの際にも出席しており、クーンを死に送る決議に署名したのです。さらにまた、1938年のポーランド共産党の粛正にも密接にかかわっていたのです。トリアッチはモスクワ裁判の第三回裁判の結果を承認し、次のように結びました。「戦争扇動者に死を、スパイに死を、ファシズムに死を!十月革命の成果の注意深い擁護者、世界革命の勝利の確実な保証人である、レーニンとスターリンの党万歳!フェリクス・ジェルジンスキーの業績をつぐ者、ニコライ・エジョフ万歳!」
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンを襲った大テロル
粛正の最終目標
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
共産主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道
2010年2月 5日 00:00
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共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇
1943年12月のキーロフ暗殺を口実に、スターリンやロシア党、コミンテルンは厳しい弾圧を本物のテロルへと移行しました。そしてソ連共産党とコミンテルンの歴史は新たな段階に入ったのです。それまで社会に向けられていたテロルは、ソ連共産党とその全能の書記長がが行使していた独占的権力の当事者達に向けられることになったのでした。
最初の犠牲者は、すでに投獄されたいたロシア反対派のメンバーでした。1936年10月ヴォルクタ地区に集められたトロツキストは一般刑事犯との分離、家族と共に生活する権利を要求してハンストを開始しましたが、4週間後に最初の死亡者がでました。次の秋、1200名の拘禁者が集められ3月の終わりに囚人リストにあげられた25名は、1キロのパンと出発の用意を整える命令を受けた後、銃殺されました。護衛隊は死体にガソリンをかけて焼き、跡形も無い状態にしたのです。女性も容赦されませんでした。処刑された活動家の妻は自動的に死刑に処せられ、12歳を超える反対派の子供たちも同じ扱いを受けました。
スペイン戦争が始まると作戦は新たな展開を見せました。スターリンがヒトラーとの接近を図っていたのに、トロキズムとナチズムを一体化させる作戦に変わったのです。やがて、スターリンが発動した大テロルはコミンテルンの中央機関に達しました。ボリス・スーヴァリヌは、大粛正の犠牲となったコミンテルンのつつましい協力者についての文章を書き「”犠牲者名簿”へのコメンタール」を完成させました。そこには「コミンテルンの殺戮に倒れた人々のほとんどは、プロレタリアのレッテルを掲げる忌まわしい専制により、めったやたらに葬り去られた無数の抹殺の、数百万の勤勉な労働者・農民の殺戮のほんの一部に過ぎない者として消え去ったのである」と書かれていたのです。
1937〜1938年の大粛正のときに弾圧機関の犠牲者になったのは、ただ単に反対派だけでなく、コミンテルン機関と付属機関の職員もまた犠牲となったのでした。たとえば、当時公報・プロパガンダ局の責任者だったアントーニ・クライェフスキは1937年5月26日に投獄されました。外国での任務から帰るやいなや逮捕された者も多かったのです。事務局から共産諸党の代表部まで、あらゆる部局が難を受けました。家族の連帯責任制の原理はすでに一般市民にたいして適用されていましたが、機関のメンバーにまで広げられたのでした。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンを襲った大テロル
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 中国 はこちら→流水成道
教案主義黒書 ソ連 はこちら→流水成道
2010年2月 4日 00:00
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