全資料はモスクワに

やがて、反対派を犯罪者扱いすることは高位の共産党責任者層まで広がりました。スペイン共産党指導部のホセ・ブリェホスとその同志の多数は1932年、モスクワに召喚され、コミンテルンの絶対命令への忠誠を拒否したので、一括してコミンテルンから除名され直ちにホテルで自宅監禁状態に置かれました。

1931年、コミンテルンはフランス共産党の元へ複数の教官を派遣しました。主であるドミートリー・マヌイリスキーが非公然でパリに現れ、政治局の前で党内に分派活動に精を出している「グループ」があると暴露しました。これによりフランス共産党の自立性は打撃を受け、モスクワとその手の者たちに依存しなければならないような「危機の開始」を演出されたのです。

「グループ」の指導者の一人、ピエール・セロールはコミンテルンの元でフランス共産党代表のポストを与えられるという口実のもとにモスクワに呼ばれました。しかし、セロールは「挑発者」として扱われ、ロシアの厳しい冬を、同行してコミンテルンで働いていた妻の食料切符のおかげで生延びるはめになりました。1932年10月、フランスに帰ることに成功したものの「デカ」であると公然と非難されるはめに陥ったのでした。

同年、多くの共産党では、ボリシェヴィキ党のモデルに従いコミンテルンの幹部担当中央部門に直属する幹部人事部局が創設されました。活動家の完全なカードシステムを作り,全指導者の詳細な伝記的・自伝的質問票を集める任務を負っていました。伝記的質問票は次の5つの項目を含んでいました。

1、出身と社会的地位
2、党における役割
3、教育と知的水準
4、社会生活への参加
5、犯罪と弾圧記録

活動家からの選抜に役立つこれらの全資料はモスクワに集中されていました。1935年、NKVDの最高責任者の一人、メーイェル・トリリッセルは幹部統制を担当するコミンテルン執行委員会の書記に任命されました。彼はミハイル・モスクヴィーンの匿名を使い、情報と告発を収集し失脚の措置を決めていたのです。この部門は並行して、共産主義とソ連の敵である「ブラックリスト」作成の任にもあたっていました。

コミンテルンの各支部は、ソ連の為の諜報要員募集の生け簀(いけす)として役に立ちました。多くの活動家は、赤軍の諜報機関(GRU)なのか、チェーカー(非常委員会)-GPU(国家政治保安部)の外国部なのか、NKVD(内務人民委員部)なのか、それとも他なのか、分からない状態でした。また、凶暴な競争心に駆り立てられており、隣接機関の要員を引き抜いてしまうこともあったのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
全資料はモスクワに

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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