粛正の始まり

スターリンが「首を絞めよう」と試みた最初の人物はレオン・トロツキーでした。孤立し、ますます弱まっていく左翼反対派はGPUの挑発行為の標的となっていたのです。GPUはウランゲリの元将校(本当はGPUの工作員)が率いる地下印刷所をでっちあげ、そこで反対派の文書が印刷されていることにしたのです。1917年10月、反対派はスローガンをもって示威することを決めていましたが、警察の乱暴な介入によりトロツキーとジノーヴィエフはボリシェヴィキ党から除名されました。

1928年1月以降、高名な党員の遠隔地へのあるいは外国への追放という措置がなされました。トロツキーはモスクワから4000キロメートル離れたトルキスタンのアルマーアタに無理矢理連行され、1年後にはトルコへと追放されたのです。彼の同志は、元労働者反対派の党員や民主集中制グループの党員と同様、多くの者が逮捕され、「政治的隔離所」と呼ばれる特殊牢獄へと送られました。

ユーゴスラビア共産主義者のアンテ・ツィリガの場合。1926年ユーゴスラビア共産党のコミンテルン代表としてモスクワに行き、トロツキーが結集していた反対派と連絡を維持したあと、コミンテルンから遠ざかっていきました。コミンテルンからは真の思想論争は遠ざけられ、指導者達に抗う者には威嚇手段を用いるようになっていました。これをツィガリは「奴隷根性制」と呼んだのです。

1930年5月ツィガリは同志とともに逮捕され、ウラルスクの政治的隔離所へ送られました。食事は一年中、朝と晩のパンと粥。昼はまずい魚、缶詰、半分腐った肉からつくられたスープ。パンの1日の配給量は700グラム・・・もちろん量も不十分でした。1934年以降、政治的隔離所の管理規則はほとんどの場合廃止され、拘留条件は悪化しました。獄中者のある者は暴力行為によって死に、ある者は銃殺され、さらにある者は完全な独房に入れられたのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
粛正の始まり

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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