クトー・プローチフ?

第10回大会は党統制委員会の再編を行い「党における統一と権威との強化」を心がけました。統制委員会は、党員の個人的記録を作成・収集し、それらは時がくれば告発状の基本資料に役立つものになりました。大会が終わると、労働者反対派の党員達は嫌がらせや迫害に遭ったのです。8月には統制活動がはじまり、数ヶ月続いた後、共産党員の4ぶんの1が除名されました。これ以後チストカ(粛正)の力を借りることが党生活の不可分の要素となりました。

アイノ・クーシネンは証言によると、「粛正」の会合はは、まず被疑者は名前を呼ばれた後壇上に登り、粛正委員会のメンバーと他の出席者の質問に答えなければなりませんでした。被疑者がとうからの除名に値する行為によって有罪だと認められなければ、投票無しで打ち切られました。反対の場合には誰も被疑者に有利な発言はしません。議長は「クトー・プローチフ?(「反対の者はいるか?」)とだけ尋ね、誰も異を唱えないので、満場一致で断をくだされるのです。

第10回大会の決定の結果はすぐに各所で感じられるようになりました。1922年2月、ガブリエル・ミャスニコフはレーニンの意見に反対し出版の自由の必要性を擁護した後1年間の除名を受けました。ソビエト権力の締め付けは強くなり、コミンテルンはまもなくボリシェヴィキ党と同じ内部規制を採用せざるを得なくなりました。

1923年ジェルジンスキーは、党員が反対派活動をするばあいGPU(ゲーペーウー)に告発する義務を負うように、政治局の正式決定を求めました。この提案はボリシェヴィキ内で新たな危機となったのです。トロツキーは中央委員会に手紙を送り、次に「46名の宣言」が後に続きました。このように開始された討論はロシア党の『新たな潮流」を巡って集中し、コミンテルンの各支部にも反響を呼ぶことになったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
”クトー・プローチフ?”(「反対の者はいるか?」)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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