コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
コミンテルンがモスクワの指導のもと、各共産党内に武装集団を維持し、その国の権力に対する蜂起と内乱を準備していたとすれば、コミンテルンもまたそれ自体の内部に、ソ連自体で行使されたいたテロル的手法を導入せざるを得ませんでした。
1921年3月8日から16日まで開かれたボリシェヴィキ党第10回大会の際、党の内部に独裁体制の基礎が築かれました。大会の2日目、レーニンは、グループを構成していず、出版物ももってなかった労働者反対派といわれる綱領の周囲に集まっていた人々と、民主集中制といわれる綱領に集まっていた人々に「同志諸君、今や反対派は必要としない。私の意見によれば、大会は反対派に終止符を打つべき時、反対派に幕を引くべき時が来た、という結論に到達しなければなるまい。反対派はもうたくさんなのだ。」と言い放ったのです。
3月16日大会が終わろうとしていた時、レーニンは2つの決議案を提出しました。1つ目は「党の統一」、2つ目は「我が党の労働組合主義的・アナーキスト的偏向」で労働者反対派を対象にしたものでした。1つ目の決議案は組織されたすべての集団の即時解散を求めていて、応じなければ、党から除名処置を受けることになっていました。除名という制裁は、党員にとって政治的死刑にほとんど等しいものだったのです。以後、共産党内部の一切の反対派は、監視の対象と制裁の対象となったのです。
2つの決議案は党の規約に反する、「自由討論の禁止」を認めさせた決議案にもかかわらず可決されました。この選択は、状況に強いられていたとはいえ、ボリシェヴィキ党員の深い傾向に応えたものであり、ソビエトの未来とコミンテルン各支部とに決定的な重みをもってのしかかることになったのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 ソ連編 はこちら→流水成道
2010年1月18日 00:00 | カテゴリー: ALL 共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇

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