中国

画像:1926年頃の蒋介石 Wikipediaより

ヨーロッパにおける失敗の後、コミンテルンはスターリンに突き動かされるように、中国という新しい戦場を見つけました。当時の中国は無秩序のただなかにあり、内戦と社会紛争に引き裂かれていたのです。

コミンテルンの責任者達とソビエト各部局によって指導されていた中国共産党は(まだ毛沢東の指導はうけていない)1925〜26年には、民族主義党=国民党とそのリーダーである蒋介石との緊密な同盟関係へ向かっていました。

共産党の戦術は、国民党を包囲して、革命のトロイの馬い仕立て上げることだったのです。コミンテルンの密使、ミハイル・ボロジンは国民党顧問の役割を占めるまでになりました。ソ連との協力政策を支持していた国民党左派は、1925年に党指導部を掌握すると、共産主義者はプロパガンダを強化し、その影響力を強めて、国民党第2回大会を支配するまでになりました。

しかし、共産主義者の影響力が拡大することに不安を抱いていた蒋介石は、共産主義者が彼を権力から遠ざけようとしていることを見抜き、先手を打ったのです。1926年3月12日、蒋介石は戒厳令を布き、国民党内の共産主義分子とソビエト軍事顧問まで逮捕させ、党内左派の指導者を左遷し、党内での共産主義者の特権と行動を制限するための8項目協定を押し付けました。こうして、蒋介石は国民党の指導者となり、新しい力関係を確認したミハイル・ボロジンは協定を承認しました。

1926年7月7日蒋介石は「軍閥」の支配下にある中国北部の征服のために民族主義軍隊を進攻させます。中国農村部には農地改革の波が渦巻いており、「土豪を打倒し、田地を分ける」とする共産党の政策を国民党右派は反対していたため両者の同盟を危うくしつつありました。1927年3月21日、民族主義軍の一個師団と蒋介石が上海に入りました。状況を我が手に取り戻そうとする蒋介石は4月12日広東で上海作戦(上海クーデター)を再演し、共産主義者は追い払われ打ち負かされたのです。

にもかかわらず、スターリンは反対派からの面子を失うまいとして、国民党との同盟を破棄した後、二人の密使を派遣し蜂起の動きを立ち上げようとしました。「秋の収穫期の反乱」は失敗におわりましたが、二人はボリシェヴィキ党の第15回大会が開催される瞬間に、自分たちの指導者に勝利の報告書をもたらそうと広東で蜂起を開始させるまで粘ったのでした。このことからもボリシェヴィキが、一切の人命に対し、自己の支持者の生命まで何とも思わない現象を遺憾なく証明しています。

1927年12月10日の晩、体制に忠実な軍勢は、労働者赤衛隊が予定していた集結地点に人をかまえました。ハンブルクにおけるように、蜂起参加者はイニシアティブの点では恵まれたものの、「ソビエト共和国」樹立の宣言は住民の間に反響を呼び起こさず、国民党の反撃に遭い数千人が殺されたのです。

この壊滅的な失敗の後、共産党は都市から撤退し、1931年以降、紅軍によって守られた「解放地区」を樹立するまで遠隔の農村地帯で再組織しました。こうして、革命とはなによりもまず、軍事機構の政治機能を制度化する軍事問題であるという考え方が早期に根をおろしたのです。のちになって毛沢東の「権力は銃剣がつくりだす」という有名な言葉がありますが、権力の奪取と維持にかかる共産主義的な見方の本質を示しています。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
中国

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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