ブルガリア

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エストニアのあとコミンテルンの行動はブルガリアに移りました
1923年6月、共産党と農地党との連立内閣を率いていたアレクサンダル・スタンボリスキーは暗殺され、軍隊と警察の支持をうけたアレクサンダル・ツァンコフがとって代わりました。9月に共産主義者は蜂起を起こしたものの1週間続いただけで、厳しく弾圧されました。そして、1924年以、共産主義者は降戦術を変え、直接行動と暗殺に訴えることにしました。
1925年2月8日ゴデッチ郡庁の攻撃により4名の死者、11日ソフィアでブルガリア・ジャーナリスト組合の委員長でもある代議士のニコラ・ミレフが暗殺。3月24日ブルガリア共産党が、テロリスト行動と共産主義者の政治目標との間に関係があることを暴露し、4月の初めには、国王アレクサンダル一世の暗殺が失敗、15日には国王側近の一人コスタ・ゲオルギエフ将軍が暗殺されました。
4月17日ソフィアの大聖堂・聖ネデーリャ教会においてゲオルギエフ将軍の葬儀の際、爆発とともにドームが崩壊し140名の死者がでました。このテロ行為は共産党軍事セクションによって組織されたもので、首謀者とみなされた指導者、コスタ・ヤンコフとイヴァン・ミンコフは逮捕の際、武器をてにしたまま殺されました。ブルガリアでの数年間の政治暴力のなかでも、最も激しい出来事でした。
このテロルによって凶暴な弾圧が正当化されました。3000名の共産主義者が逮捕され、3名が公開で絞首刑されました。コミンテルンの機関員たちによれば、このテロルに責任があるのは、ブルガリア共産主義者の指導者ゲオルギ・ディミトロフでした。彼はウィーンから党を非公然に指導しており、1948年12月に事件の責任が自身と軍事組織のものであると認めたのです。
別のソースでは、大聖堂にダイナマイトを仕掛けさせた男はチェーカーの外国人支部の責任者であり、次いで GPU(国家政治保安部)の副総裁となり、1927年に赤旗勲章を授けられたメーイェル・トリリッセルだったという。30年代には、彼はコミンテルンの10名の書記の一人であり、NKVD(内務人事委員部)のためにコミンテルンを常時統制する役割を果たしました。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
ブルガリア
共産主義黒書 ソ連編 はこちら→流水成道
2010年1月13日 00:00 | カテゴリー: ALL 共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇

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