エストニア

画像:Wikipedia
ドイツに続いて、エストニア共和国は2度目の侵略を被る機会となりました。
1度目は1917年10月27日エストニアソビエト執行委員会がタリンで権力を掌握した後、議会を解散させ、共産主義者に不利な選挙を無効にしましたが、ドイツ軍の遠征の前に共産主義者は退却したのです。ドイツ軍が到着する直前の1918年2月24日、エストニア人は独立を宣言ました。ドイツ軍の占領は同年11月まで続いたあとドイツ皇帝の敗北を機に撤退せざるを得なくなり、再び共産主義者が直ちに勢いを取り戻しました。
11月18日、ペトログラードで政府が樹立、赤軍の2個師団がエストニアへ侵入しました。1919年1月に首都30キロにまで迫りましたが、ソビエト軍はエストニアの反撃によって進撃を停められました。2度目の攻撃も失敗に終わったのです。このとき、占領していた地域ではボリシェヴィキ殺戮行為を行っていました。撤退前夜のタルトゥで250名を、ラクヴィレ地区では1000名を殺害しました。殺された人質は、腕や脚を折られ、ときには目をえぐられるなど拷問の痕がありました。
ソビエト軍は敗北しましたが、エストニアを支配圏に取り込むことを断念していませんでした。1924年4月、モスクワとの間で行われた秘密会議の際に、エストニア共産党は武装蜂起の準備を決定しました。目的はソビエト共和国を宣言しソビエト・ロシアへの加盟を求めることで、赤軍の派遣を正当化することにありました。しかし、クーデターはその日のうちに失敗したのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
エストニア
共産主義黒書 ソ連編 はこちら→流水成道
2010年1月12日 00:00 | カテゴリー: ALL 共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇

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