ドイツ

1921年3月、ドイツにおいてクーン・ベラの指導の下に、コミンテルンが大規模な革命行動を計画しました。このザクセン州で展開された「3月行動」はハレ=ライプチヒ間特急列車へのダイナマイトによる暴力的手段を用いたにもかかわらず失敗に終わりました。この失敗の結果、コミンテルン内では最初の粛正が行われ、ドイツ共産党の創立者の一人であるパウル・レーヴィがコミンテルンから遠ざけられました。(図=ザクセン州 Wikipediaより)
この頃には、インターナショナルの各国支部にほかならない共産諸党は、コミンテルンへの政治的、組織的従属(やがては服従)に落ち込んでいくことになりました。コミンテルンは紛争に断を下し、各党の政治路線を最終的に決定していたのです。
1923年1月、フランス軍とベルギー軍は、ベルサイユ条約で定められた賠償支払いとして、ルール地帯を占領しました。この結果、「フランス帝国主義」に対抗するドイツの民族主義者と共産主義の接近を招きます。そして、もう一つの結果として、住民の受動的抵抗を呼び起こすことになりました。不安定な経済は根底から悪化し、8月には1ドル1300万マルクまで貨幣価値は暴落しました。ストライキ、デモ,暴動が相次ぎ、8月13日には革命的な空気のなかでヴィルヘルム・クーノー政府は倒れたのです。
モスクワでは新たな10月革命を考慮すべきとし、密使と内戦の専門家がドイツに送られました。大量の武器を入手する為には、形成途上にある左翼社会主義者と共産主義からなる労働者政府を頼りにすると定められていました。
この時、ザクセン州とチェコスロバキアを結ぶ鉄橋を爆破し、チェコスロバキアの介入をもたらし混乱を増大させることが狙いでした。勝利を信じていたモスクワでは赤軍を西部国境に動員し,蜂起の援助に備えていました。しかし、グスタフ・シュトレーゼマンの政府はザクセンに非常事態宣言をし直接支配下におき、また左翼社会民主主義者が共産主義者の言いなりになることを拒否した為、策動は失敗に終わりました。情報の伝達が上手くいかないまま、ハンブルクの共産主義者は23日蜂起しましたが、31時間後には鎮圧され蜂起の目標を達成できませんでした。第二の十月革命は起こらなかったのです。
1月10日COMIC CITY 大阪77 橘研究所のブースでお会いしましょう!
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
ドイツ
共産主義黒書 ソ連編 はこちら→流水成道
2010年1月10日 00:00 | カテゴリー: ALL 共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇

コメントの投稿