2010年1月

フランス共産党のブラックリスト

1932年以降、フランス共産党は疑わしいないし危険な人間に関する情報を集め始めました。リストはコミンテルンの密使による幹部担当機関の掌握と並行して生まれました。最良の活動家の選抜をめざす幹部部門の設立と並んで、その対極にあたる人々を告発するリストが現れたのです。

1939年6月までにフランス共産党は「追放された挑発者、裏切り者、警察スパイのブラックリスト」とか「フランス労働者組織から追放された挑発者、泥棒、詐欺、トロツキスト」と似ているともいえるブラックリストを発表しました。そして、これらを正当化する為に「我が国における労働者階級と革命組織に対するブルジョアジーの闘いはますます鋭くなりつつある」という単純な論拠を使っていました。

活動家は特別警察の補助要員の仮面をかぶり小チェキストを気取らなければなりませんでした。「容疑者」の身体的特徴、身長、髪、額、眼、その他の特徴を提供し、居住地を含め、すべての有益な情報が告発された個人の捜査を容易にしたのです。容疑者の中には本物のスパイもいましたが、党路線への反対派も含まれていました。30年代には、共産党指導者からナチスと共同するファシストに転向したジャック・ドリオや彼の選挙区のサン=ドニの縄張りに忠実な活動家が狙われ、ついで、トロツキストが狙われるようになりました。ブラックリスト1−8号によると、トロツキストとは「熱狂的で原則の無い破壊活動家、外国スパイ機関のめいれいどおりに行動する牽制と暗殺者の手先の群れ」とされていました。

戦争や独ソの接近を支持したフランス共産党の禁止、さらにドイツによる占領の結果、党は警察的活動を強化せざるを得なくなっていました。レジスタンスに加わった者も含めて、ヒトラー-スターリン同盟の支持を拒否していた活動家は弾劾されたのです。

1945年に共産党は政治的敵対者を「国民からつまはじきする」ために、新しいブラックリストを公開しました。ブラックリストの制度化は、ソビエトの保安機関(チェーカー、GPU、NKVD)による潜在的被告のリスト作成に照応するものでした。これはロシアでの内戦初頭以来開始された、共産主義者の普遍的な実践です。

特殊機関も、コミンテルンも、彼らの行動をスターリンに報告することで、ソ連共産党指導部の最高権力に応えることになりました。1932年、反対派の弾圧に力を尽くしていたマルテミヤン・チューチンは、スターリンとの対立関係に陥りました。彼は綱領案の中で「スターリンはコミンテルンの中で常に教皇と同じ権威を持っていた。(・・・)スターリンはコミンテルンの全指導的幹部を、モスクワにおいてのみならず、どの現地においても、直接的・間接的な物質的従属関係のもとに、その手にしっかり掌握している。」と書いていました。

20年代の終わりから早くも、ソビエト国家の財政的に従属していたコミンテルンは、自立的であるためのいっさいの手段を失っていたのです。警察機関から強く及ばされる圧力の結果、コミンテルン活動家の間には恐怖と不信感が根をおろすようになってきました。同時に密告が人間関係をむしばみ、猜疑心が活動家の頭に入り込んだのです。密告を発動させるのが単に恐怖であることもあったが、活動家によっては同志を告発することを誇りとする者もいました。



参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
フランス共産党のブラックリスト

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 ソ連編 はこちら→流水成道

全資料はモスクワに

やがて、反対派を犯罪者扱いすることは高位の共産党責任者層まで広がりました。スペイン共産党指導部のホセ・ブリェホスとその同志の多数は1932年、モスクワに召喚され、コミンテルンの絶対命令への忠誠を拒否したので、一括してコミンテルンから除名され直ちにホテルで自宅監禁状態に置かれました。

1931年、コミンテルンはフランス共産党の元へ複数の教官を派遣しました。主であるドミートリー・マヌイリスキーが非公然でパリに現れ、政治局の前で党内に分派活動に精を出している「グループ」があると暴露しました。これによりフランス共産党の自立性は打撃を受け、モスクワとその手の者たちに依存しなければならないような「危機の開始」を演出されたのです。

「グループ」の指導者の一人、ピエール・セロールはコミンテルンの元でフランス共産党代表のポストを与えられるという口実のもとにモスクワに呼ばれました。しかし、セロールは「挑発者」として扱われ、ロシアの厳しい冬を、同行してコミンテルンで働いていた妻の食料切符のおかげで生延びるはめになりました。1932年10月、フランスに帰ることに成功したものの「デカ」であると公然と非難されるはめに陥ったのでした。

同年、多くの共産党では、ボリシェヴィキ党のモデルに従いコミンテルンの幹部担当中央部門に直属する幹部人事部局が創設されました。活動家の完全なカードシステムを作り,全指導者の詳細な伝記的・自伝的質問票を集める任務を負っていました。伝記的質問票は次の5つの項目を含んでいました。

1、出身と社会的地位
2、党における役割
3、教育と知的水準
4、社会生活への参加
5、犯罪と弾圧記録

活動家からの選抜に役立つこれらの全資料はモスクワに集中されていました。1935年、NKVDの最高責任者の一人、メーイェル・トリリッセルは幹部統制を担当するコミンテルン執行委員会の書記に任命されました。彼はミハイル・モスクヴィーンの匿名を使い、情報と告発を収集し失脚の措置を決めていたのです。この部門は並行して、共産主義とソ連の敵である「ブラックリスト」作成の任にもあたっていました。

コミンテルンの各支部は、ソ連の為の諜報要員募集の生け簀(いけす)として役に立ちました。多くの活動家は、赤軍の諜報機関(GRU)なのか、チェーカー(非常委員会)-GPU(国家政治保安部)の外国部なのか、NKVD(内務人民委員部)なのか、それとも他なのか、分からない状態でした。また、凶暴な競争心に駆り立てられており、隣接機関の要員を引き抜いてしまうこともあったのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
全資料はモスクワに

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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粛正の始まり

スターリンが「首を絞めよう」と試みた最初の人物はレオン・トロツキーでした。孤立し、ますます弱まっていく左翼反対派はGPUの挑発行為の標的となっていたのです。GPUはウランゲリの元将校(本当はGPUの工作員)が率いる地下印刷所をでっちあげ、そこで反対派の文書が印刷されていることにしたのです。1917年10月、反対派はスローガンをもって示威することを決めていましたが、警察の乱暴な介入によりトロツキーとジノーヴィエフはボリシェヴィキ党から除名されました。

1928年1月以降、高名な党員の遠隔地へのあるいは外国への追放という措置がなされました。トロツキーはモスクワから4000キロメートル離れたトルキスタンのアルマーアタに無理矢理連行され、1年後にはトルコへと追放されたのです。彼の同志は、元労働者反対派の党員や民主集中制グループの党員と同様、多くの者が逮捕され、「政治的隔離所」と呼ばれる特殊牢獄へと送られました。

ユーゴスラビア共産主義者のアンテ・ツィリガの場合。1926年ユーゴスラビア共産党のコミンテルン代表としてモスクワに行き、トロツキーが結集していた反対派と連絡を維持したあと、コミンテルンから遠ざかっていきました。コミンテルンからは真の思想論争は遠ざけられ、指導者達に抗う者には威嚇手段を用いるようになっていました。これをツィガリは「奴隷根性制」と呼んだのです。

1930年5月ツィガリは同志とともに逮捕され、ウラルスクの政治的隔離所へ送られました。食事は一年中、朝と晩のパンと粥。昼はまずい魚、缶詰、半分腐った肉からつくられたスープ。パンの1日の配給量は700グラム・・・もちろん量も不十分でした。1934年以降、政治的隔離所の管理規則はほとんどの場合廃止され、拘留条件は悪化しました。獄中者のある者は暴力行為によって死に、ある者は銃殺され、さらにある者は完全な独房に入れられたのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
粛正の始まり

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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クトー・プローチフ?2

フランスではフランス共産党(PCF)の指導者の一人ボリス・スーヴァリヌが新路線に反対。トロイカ(カーメネフとジノーヴィエフとスターリン)が敵対者であるレオン・トロツキーに対して用いた下劣な手法を弾劾しました。ソ連共産党(PCUS)第13回大会の際、ボリス・スーヴァリヌは召還されます。強制的自己批判集会の様相を示す非難の場となり、委員会は彼の一時的除名を宣言しました。

これに対するフランス共産党指導部の反応は「フランス・ボリシェヴィキの鉄のような匿名軍団が形成されるであろう、党が共産主義インターナショナルにふさわしくあろうとすれば、また、ロシア党の光栄ある道に従おうとするならば、フランス共産党は、党内にあって、その法に従うことを拒もうとする全ての者を容赦なく打ち倒すべきである!」と以後の世界党の隊列がどのような精神状態を求められているかを示していました。また、サンジカリストのピエール・モナトは共産党の「軍事化」と一言で要約しまたのです。

1924年夏、コミンテルン第5回大会においてジノーヴィエフは共産党主義運動に浸透しつつあった政治的風俗ををみごとに表現して反対派を威嚇しましたが、それが仇となってしましました。翌年以降コミンテルン委員長の職務から解任されたのです。ジノーヴィエフはブハーリンに取って代わられましたが、やがて、そのブハーリンも同じ結果となったのです。

1928年7月11日、コミンテルン第6回大会の直前、カーメネフは密かにブハーリンに会いました。ブハーリンは電話が盗聴されていることと、GPUに尾行されていることを説明しました。「彼はわれわれの首を絞めるだろう・・・われわれは分裂をもたらすことはできまい。というのは、そうすれば、首を絞められてしまうだろうから。」「彼」とはいうまでもなくスターリンのことです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
”クトー・プローチフ?”(「反対の者はいるか?」)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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クトー・プローチフ?

第10回大会は党統制委員会の再編を行い「党における統一と権威との強化」を心がけました。統制委員会は、党員の個人的記録を作成・収集し、それらは時がくれば告発状の基本資料に役立つものになりました。大会が終わると、労働者反対派の党員達は嫌がらせや迫害に遭ったのです。8月には統制活動がはじまり、数ヶ月続いた後、共産党員の4ぶんの1が除名されました。これ以後チストカ(粛正)の力を借りることが党生活の不可分の要素となりました。

アイノ・クーシネンは証言によると、「粛正」の会合はは、まず被疑者は名前を呼ばれた後壇上に登り、粛正委員会のメンバーと他の出席者の質問に答えなければなりませんでした。被疑者がとうからの除名に値する行為によって有罪だと認められなければ、投票無しで打ち切られました。反対の場合には誰も被疑者に有利な発言はしません。議長は「クトー・プローチフ?(「反対の者はいるか?」)とだけ尋ね、誰も異を唱えないので、満場一致で断をくだされるのです。

第10回大会の決定の結果はすぐに各所で感じられるようになりました。1922年2月、ガブリエル・ミャスニコフはレーニンの意見に反対し出版の自由の必要性を擁護した後1年間の除名を受けました。ソビエト権力の締め付けは強くなり、コミンテルンはまもなくボリシェヴィキ党と同じ内部規制を採用せざるを得なくなりました。

1923年ジェルジンスキーは、党員が反対派活動をするばあいGPU(ゲーペーウー)に告発する義務を負うように、政治局の正式決定を求めました。この提案はボリシェヴィキ内で新たな危機となったのです。トロツキーは中央委員会に手紙を送り、次に「46名の宣言」が後に続きました。このように開始された討論はロシア党の『新たな潮流」を巡って集中し、コミンテルンの各支部にも反響を呼ぶことになったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧
”クトー・プローチフ?”(「反対の者はいるか?」)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧

コミンテルンがモスクワの指導のもと、各共産党内に武装集団を維持し、その国の権力に対する蜂起と内乱を準備していたとすれば、コミンテルンもまたそれ自体の内部に、ソ連自体で行使されたいたテロル的手法を導入せざるを得ませんでした。

1921年3月8日から16日まで開かれたボリシェヴィキ党第10回大会の際、党の内部に独裁体制の基礎が築かれました。大会の2日目、レーニンは、グループを構成していず、出版物ももってなかった労働者反対派といわれる綱領の周囲に集まっていた人々と、民主集中制といわれる綱領に集まっていた人々に「同志諸君、今や反対派は必要としない。私の意見によれば、大会は反対派に終止符を打つべき時、反対派に幕を引くべき時が来た、という結論に到達しなければなるまい。反対派はもうたくさんなのだ。」と言い放ったのです。

3月16日大会が終わろうとしていた時、レーニンは2つの決議案を提出しました。1つ目は「党の統一」、2つ目は「我が党の労働組合主義的・アナーキスト的偏向」で労働者反対派を対象にしたものでした。1つ目の決議案は組織されたすべての集団の即時解散を求めていて、応じなければ、党から除名処置を受けることになっていました。除名という制裁は、党員にとって政治的死刑にほとんど等しいものだったのです。以後、共産党内部の一切の反対派は、監視の対象と制裁の対象となったのです。

2つの決議案は党の規約に反する、「自由討論の禁止」を認めさせた決議案にもかかわらず可決されました。この選択は、状況に強いられていたとはいえ、ボリシェヴィキ党員の深い傾向に応えたものであり、ソビエトの未来とコミンテルン各支部とに決定的な重みをもってのしかかることになったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルン内部における独裁・反対派の犯罪者扱い・弾圧

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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武装蜂起を捨てないコミンテルン3

共産党の機関メンバーがソビエトの特殊機関の作戦の中で利用されるということさえありました。

その実例として、クチェーポフ事件があります。1928年、GPU(ゲーペーウー)は全軍統合同盟(ROVS)指導部を解体することを決定します。1月26日、将軍の姿は見えなくなっていました。多くの噂が飛交っていましたが、「エコー・ド・パリ」紙のジャーナリスト、ジャン・ドゥラージュの調査によると、クチェーポフ将軍はウルガト村まで連行されてソビエト船スパルターク号に乗せられた、2月29日にル・アーヴル港を離れたという事実でした。これ以後一人として、生きている将軍を見た者はいませんでした。

1965年、ソビエトの将軍シマーノフは赤軍機関紙「赤い星」で作戦に関与したことと、セルゲイ・プジーツキーがクチェーポフ将軍の逮捕作戦を遂行したことを明らかにしました。セルゲイ・二コラエヴィッチ・トレチャコフは1929年以降、密かにソビエト側に移り、ソビエト側に情報を与えていたのです。モスクワは提供される詳細な情報によりツァリー派の将軍の移動を把握していたのでした。交通警官を装った自動車修理工のオネルとその兄が服従を拒んだクチェーポフを短刀で殺害し、修理工場の地下に死体を埋めたのです。
 

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クチェーポフの後継者、ミレル将軍の副官にニコライ・スコブリンがいました。しかし、彼はソビエト側の工作員でパリでミレル将軍の誘拐を組織し、1937年9月将軍は失跡しました。次に、疑惑があからさまになってきたスコブリン将軍も失跡したのです。モスクワに着くとミレル将軍は尋問され、射殺されたのでした。(画像:Wikipedia ミレル将軍



参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
武装蜂起を捨てないコミンテルン


ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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武装蜂起を捨てないコミンテルン2

共産主義者の暴力の基本は少しも変わること無く、暴力の正当化、階級憎悪の日常的実践、内戦とテロルのこうした理論化は、1936年以降のスペインにおいて適用されたのです。コミンテルンは有能な多くの幹部をスペインに派遣しました。

将来の武装蜂起のための現地幹部の選抜・養成・準備といった活動はすべて、GROU(グルー)と呼ばれるソビエトの秘密機関との連絡のもとに行われました。トロツキーの庇護のもとに赤軍第4部として創設されたGROU(グルー)は任務を完全に放棄することは決してありませんでした。1970年代初頭にも、フランス共産党が信頼する若い幹部は、秘密機関の手に委ねられたソビエトの特殊部隊スペツナズのもとでソ連の訓練を受けていたのです。反対にGROU(グルー)は兄弟党に提供できる軍事専門家を有していました。マンフトーレ・シュテルンは1923年ハンブルク蜂起のためドイツ共産党のもとに派遣されたあと、次いで中国と満州ではたらき、やがてスペインにおける「クレベール将軍」となったのです。

これら非公然組織のメンバーは極端な場合、強盗に近いことが多々あり、本物の強盗に変貌した者さえいました。最も顕著な実例として1920年代後半における中国共産党の「赤衛隊」あるいは「赤い中隊」の場合です。党の行動の中心地とされていた上海で、秘密結社、青幇(チンパン)の顧順章(こじゅんしょう)に指導された手下どもは、国民党系の同類の藍衣社と対決し、テロルにはテロルを、待ち伏せには待ち伏せを、個人的暗殺には個人的暗殺を報いるというふうに、怪しげな戦闘を繰り返しました。これらの闘いはソ連の上海領事の積極的な支援を得ていたのです。

1931年4月顧順章(こじゅんしょう)の転向(国民党側についた)ののち、上海で後を継いだのは5人の共産党幹部からなる特別委員会でした。しかし、1934年には中国共産党の都市機関は崩壊し、共産党武装グループの最後の2名の指導者、丁黙村(ていもくそん)と李士群(りしぐん)も国民党の手に落ちたのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
武装蜂起を捨てないコミンテルン

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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武装蜂起を捨てないコミンテルン

1920年代初期におけるヨーロッパと中国での壊滅的打撃にもかかわらず、コミンテルンは落胆することなく己の路線を追求し続けました。全ての共産党は秘密の軍事機構を党内に維持しており、そのモデルとなったのはドイツ共産党(KPD)です。ドイツ共産党はソビエト軍事幹部の緊密な統制下に、国内に膨大な「M(軍事)機関」を創設しました。その任務は敵対的活動家と党内に潜入した警察スパイの一掃、また赤色戦線という準軍隊的集団への幹部の配置を目的としていたのです。

共産主義者は極右や出現し始めたナチズムと闘う一方で「裏切り者社民」ないし「社会ファシスト」と決めつけていた社会主義者の会合を襲ったりしたのです。1933年以降は「真のファシズム」の実態を明るみにし、「ブルジョワ」民主主義を守る為には社会主義者と同盟する方が賢明であると証明しましたが、共産主義者はこのタイプの民主主義を根底的に認めていませんでした。

フランスでもフランス共産党(PCF)は武装グループを創設しました。組織者は党初期のアルベール・トゥランでした。1924年1月11日の共産党集会において、アナーキストが異議を申し立て、トゥランが防衛隊に助けを求めたところ拳銃で武装した集団が演壇にとびあがり、異議を唱えた者に発砲し、2名の死者と数人の負傷者を出しました。また、1925年4月23日、フランス共産党の防衛隊は極右組織の選挙集会終了時を狙って混乱を引き起こしました。この時も数人の活動家は拳銃を使用したため4人の犠牲者がでました。

1926年には国会議員に選出されたジャック・デュクロに、反ファシスト青年隊と反ファシスト防衛集団とを組織する任務を与えました。これと並行してデュクロは、内戦の技術と、街頭闘争を記述し分析する内容の雑誌「赤い戦士」を刊行したのです。


参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第一部 世界革命・内戦・テロル
第一章 行動に移ったコミンテルン
コミンテルンと内戦
武装蜂起を捨てないコミンテルン

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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強制捜査いらだつ小沢氏側近

強制捜査いらだつ小沢氏側近

民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」が購入した土地をめぐる疑惑で、東京・永田町と北海道の事務所が東京地検特捜部の捜索を受けた民主党の石 川知裕衆院議員(36)。厳しい表情で捜索に立ち会うために、東京の事務所に入った。事務所前は、集まった多くの報道記者らで騒然となり、近くにいてコメ ントを求められた小沢氏の側近議員が「うるさい!」と声を荒げるシーンもあった。

出典:産経 2010.1.13

いよいよ小沢氏への包囲網が狭まってきているようです。某雑誌などでは小沢氏を擁護するような記事が記載されていました。そのような記事で庶民を欺こうとする手法も古くさいのですが、そのようにして手を打つしかないのでしょう。いづれにせよ民主党はリーダー不在のまま漂流するしかなさそうです。夏の参院選は民主敗退の声もささやかれ始めました。

中国もバブル崩壊の兆しが見えてきました。2010年5月1日〜10月31日まで上海万博が開催されます。上海万博までは崩壊しないというのが一般投資家の楽観的な判断となっているようですが、どうなることでしょう。中国側としては小沢氏との太いパイプがある間にバブルを崩壊させて、その尻拭いを日本に充てようとする思惑もあるようです。

参考:中国不動産バブルは近いうちに崩壊か?。

今後も多くの人が涙を飲むことになるのでしょうが、この政権を支持したのも私達国民ということです。既存の政党や政治家に期待しても何も変わらないことに早く気づくことができれば、その速度に応じて被害は軽減されるでしょう。土壌(国民)が汚染されていれば、苗(政治家)も汚染されるというわけです。

教育における革命を読んで将来を考えてみましょう。